『日本書紀』における任那
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『日本書紀』(720年成立)崇神天皇条から天武天皇条にかけて「任那」が多く登場する。 崇神天皇65年と垂仁天皇2年の条は一連の記事で、任那と日本の最初の関係の起源を語る。 応神天皇7年と25年の記事のうち25年の条は『百済本記』の引用である。 雄略天皇7年のあたりからかなり詳しい伝承がふえ、同天皇8年の記事では「日本府行軍元帥」の文字がみえ、倭の五王の三韓における軍事指揮権との関係が推察される。同21年の記事は有名な百済の一時滅亡と熊津での百済再建に絡んでの記事である。 顕宗天皇3年、阿閉臣事代が任那に赴いたこと、紀生磐宿禰が任那に拠って自立の勢いを示したことが見える。 継体天皇3年にも記事があり、同天皇6年の条は有名な「四県二郡割譲事件」の記事、同21年の条は「磐井の乱」に絡んでの記事である。23年、24年にも金官加羅の滅亡の前後をめぐる詳しい伝承がある。 宣化天皇2年、大伴狭手彦を任那に派遣した。 欽明天皇からはおびただしく記事が増え、ほぼ毎年任那関係の事件が見える。欽明2年(541年)4月の条に「任那」に「日本府」を合わせた「任那日本府」が現れ、同年秋7月の条には「安羅日本府」も見える。同天皇23年(562年)の条には、加羅国(から)、安羅国(あら)、斯二岐国(しにき)、多羅国(たら)、率麻国(そつま)、古嵯国(こさ)、子他国(こた)、散半下国(さんはんげ)、乞飡国(こつさん、さんは、にすいに食)、稔礼国(にむれ)の十国の総称を任那と言う、とある。 地理上、任那が朝鮮半島における日本に最も近い地域であり、重要な地域であったことに由来し、日本の史料が最も豊富な情報を提供している。これらの史料によると日本(倭)は、任那滅亡後に新羅に「任那の調」を要求し、それに従って新羅が調(貢物)を納めていた事実が書かれている。 なお、『日本書紀』継体紀23年(529年)条、継体紀24年(530年)条には「任那王己能末多干岐」という人物が登場するが、「己」は「巳」の誤記であり、己能末多干岐は任那王ではなく、加羅王の異脳王であるとする説が存在する。 任那の滅亡 西暦562年、任那日本府が新羅によって滅ばされた。 新羅による任那征服と推古朝の新羅征討 『日本書紀』によれば、飛鳥時代にも朝鮮半島への軍事行動が計画された。滅亡した任那を回復するための「征討軍」が推古朝に三度、計画され、一度目は新羅へ侵攻し、新羅は降伏している。 推古8年(西暦600年)2月で、倭国は任那を救援するために新羅へ出兵した。境部臣(さかひべのおみ)が征討大将軍に任命され、副将軍は穂積臣であった。五つの城が攻略され、新羅は降伏した。さらに、多多羅(たたら)、素奈羅(すなら)、弗知鬼(ほちくい)、委陀(わだ)、南迦羅(ありひしのから)、阿羅々(あらら)の六つの城が攻略された。難波吉士神(なにわのきしみわ)を新羅に派遣し、また難波吉士木蓮子(なにわのきしいたび)を任那に派遣し、両国が倭国に朝貢を約させた。しかし、倭国の軍が帰国したのち、新羅はまた任那へ侵攻した。翌推古9年(601年)3月には、大伴連囓(おほとものむらじくひ)を高麗(こま)に派遣し、坂本臣糠手(さかもとのおみあらて)を百済へ派遣し、任那救援を命じた。 推古10年(602年)2月、聖徳太子の弟来目皇子が新羅征討将軍として軍二万五千を授けられる。4月に軍を率いて筑紫国に至り、島郡に屯営した。6月3日、百済より大伴連囓と坂本臣糠手が帰国する。しかし、来目皇子が病を得て新羅への進軍を延期とした。来目皇子は、征討を果たせぬまま、翌推古11年(603年)2月4日、筑紫にて薨去。来目皇子は、周防の娑婆(遺称地は山口県防府市桑山)に殯し、土師猪手がこれを管掌した。 推古11年(603年)4月、来目皇子の兄当摩皇子(たぎまのみこ)が新羅征討将軍に任命される。推古11年(603年)7月3日、難波より出航し、7月6日に播磨に到着するが、妻の舎人皇女(欽明天皇の皇女)が赤石に薨去したため、当摩皇子は朝廷に帰還し、計画は潰えた。 その後、大化2年(646年)2月まで任那は高麗・百済・新羅とともに倭国へ調を納めていたが、同年9月に高向博士黒麻呂(高向玄理)が新羅へ派遣され、質(人質)を送ることと引き替えに、これまで「任那の調」の代行納入を新羅に求めることは廃止され、質として金春秋(後の武烈王)が来日している。
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