『日本書紀』に見る創建の経緯とは? わかりやすく解説

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『日本書紀』に見る創建の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 21:02 UTC 版)

四天王寺」の記事における「『日本書紀』に見る創建の経緯」の解説

四天王寺蘇我馬子法興寺飛鳥寺)と並び日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである四天王寺草創については『日本書紀』次のように記されている。 用明天皇2年587年)、かねてより対立していた崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏の間に武力闘争発生した蘇我軍は物部氏本拠地であった河内国渋河(現:大阪府東大阪市布施)へ攻め込んだが、敵の物部守屋稲城(いなき、稲を積んだ砦)を築き、自らは(えのき)の上から矢を放って防戦するので、蘇我軍は三たび退却した聖徳太子こと厩戸皇子当時14歳)は蘇我氏の軍の後方にいたが、この戦況見て白膠木(ぬるで)という木を伐って、四天王の像を作り、「もしこの戦に勝利したなら、必ずや四天王安置する寺塔(てら)を建てる」という誓願をした。その甲斐あって味方の矢が敵の物部守屋命中し、彼は「えのき」の木から落ち戦い崇仏派の蘇我氏勝利終わった。その6年後、推古天皇元年593年)、聖徳太子摂津難波の荒陵(あらはか)で四天王寺建立取りかかった。寺の基盤支えるためには、物部氏から没収した奴婢土地用いられたという(なお、蘇我馬子法興寺上記戦い翌年から造営始まっており、四天王寺造営開始はそれから数年後であった)。 以上が『書紀』の記載あらましである。聖徳太子草創伝える寺は近畿地方一円多数あるが、実際に太子創建に関わったと考えられるのは四天王寺法隆寺のみで、その他は「太子ゆかりの寺」とするのが妥当である。 『書紀』の推古元年是歳条には「是歳、始めて四天王寺難波の荒陵に造るとあって、「是歳」が造営開始意味するものか完成意味するものか定かでなく、めでたい「元年」を造営の年にしたものとも考えられている。ただし、四天王寺推古朝にはすでに存在したことは考古学的に確認されている。前期難波宮難波長柄豊碕宮、現:大阪市中央区法円坂)の下層遺構から瓦が出土するが、この時代日本において瓦葺き建物仏教寺院のみであり、これらの瓦は四天王寺創建瓦と見なされている。したがって孝徳天皇前期難波宮に遷った7世紀半ば以前推古朝にすでに四天王寺がこの地に存在したことが分かる四天王寺創建瓦の中には斑鳩寺法隆寺)のいわゆる若草伽藍現存する法隆寺西伽藍建立以前存在した創建法隆寺伽藍)の出土瓦と同笵の軒丸瓦がある。若草伽藍四天王寺の同笵瓦を比較すると、前者文様シャープであるのに対し後者瓦当笵に傷が見られる。このことから、若草伽藍造営先行し、同伽藍造営落ち着いたところで、瓦当笵が四天王寺造営工房移動したことが分かる四天王寺伽藍配置中門、塔、金堂講堂を南から北へ一直線配置する四天王寺式伽藍配置」であり、法隆寺西伽藍7世紀焼失後、8世紀初め頃の再建とするのが定説)の前身である若草伽藍伽藍配置もまた四天王寺式であったことはよく知られる

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