『日本書紀』による、磐井の乱の経緯とは? わかりやすく解説

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『日本書紀』による、磐井の乱の経緯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:20 UTC 版)

磐井の乱」の記事における「『日本書紀』による、磐井の乱の経緯」の解説

527年継体天皇21年6月3日大和朝廷近江毛野は6万人の兵を率いて新羅奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那向かって出発したいずれも朝鮮半島南部諸国)。この計画知った新羅は、筑紫九州地方北部)の有力者であった磐井日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し大和朝廷軍の妨害要請した磐井挙兵し火の国肥前国肥後国)と豊の国豊前国豊後国)を制圧するとともに倭国朝鮮半島とを結ぶ海路封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み近江毛野軍の進軍をはばんで交戦した。このとき磐井近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。大和朝廷では平定軍の派遣について協議し継体天皇大伴大連物部大連鹿火・許勢大臣男人らに将軍人選諮問したところ、物部麁鹿火推挙され同年8月1日、麁鹿火将軍任命され天皇から筑紫以西統治委任された。 528年11月11日磐井軍と大将軍の麁鹿火率い大和朝廷軍が、筑紫三井郡現福岡県小郡市三井郡付近)にて交戦し激し戦闘の結果磐井軍は敗北した日本書紀によると、このとき磐井物部麁鹿火に斬られたとされている。同年12月磐井の子筑紫葛子連座から逃れるため、糟屋現福岡県糟屋郡付近)の屯倉大和朝廷献上し死罪を免ぜられた。 乱後529年3月大和朝廷倭国)は再び近江毛野任那安羅派遣し新羅との領土交渉を行わせている。

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