『日本書紀』での引用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/08 15:47 UTC 版)
『日本書紀』で三書が明示的に引用されている個所は、『百済記』が5か所、『百済新撰』が3か所、『百済本記』が18か所である。逸文に見る引用には、「天皇」や「日本」など、後世の7世紀からようやく用いられるようになった言葉が現れていたり、日本のことを「貴国」と表現しているなど、およそ三書からの引用とは思えない箇所があることが津田左右吉によって指摘されており、『日本書紀』編者による潤色・改竄が行われていることは確実とされる。 しかし、継体天皇の崩年(崩御の年、527年?)については逆に、『百済本記』の記録を採用しているがために『日本書紀』の体裁がおかしくなっており、三書全部が『日本書紀』編者によって都合よく作り出されたものでもない。井上はこういったことを考慮して、三書は「その編成目的に日本関係を主眼とするなどの偏向があったとしても、それぞれ編纂者を異にした百済の史書とすべきであろう」としている。 紀年については、三書を引用した『日本書紀』(応神紀)と『三国史記』とが、干支で記述された年月と事績との対比から、記述された実年代とは干支の2周分(2運)、即ち120年ずれて一致することが本居宣長、那珂通世らによって指摘されている。井上はさらにその理由について、日本書紀の編纂者が古事記に崩年注記のない神功皇后を中国史に現れる卑弥呼に比定するためであったとしている。
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