がらん‐はいち【×伽藍配置】
伽藍
伽藍配置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 11:48 UTC 版)
1957年(昭和32年)から1959年(昭和34年)に実施された発掘調査で、川原寺の伽藍配置は一塔二金堂式の特異なものであったことが判明し、「川原寺式伽藍配置」と称されている。川原寺では中門左右から出た廻廊が伽藍中心部を方形に区切り、廻廊の北辺中央に中金堂が位置する。廻廊で囲まれた区画内には中金堂の手前右(東)に五重塔、西に西金堂が建つ。廻廊内に仏堂と塔が左右に並んで建つ点は法隆寺西院伽藍と類似するが、法隆寺金堂が南を正面とするのに対し、川原寺西金堂は東を正面とし、塔のある方向に向いて建てられている点が異なる。発掘調査の結果によれば、西金堂は現存する唐招提寺金堂と同様に正面を吹き放ち(建具や壁を入れずに開放とする)とした建築であり、中金堂は正面三間×側面二間(「間」は柱間の数を意味する)の母屋の四方に吹き放ちの庇をめぐらした開放的な建物であったことがわかっている。これらの建物は後にことごとく失われ、礎石のみが残っている。中で、中金堂の礎石には他に類例のない大理石の礎石が使用されている点が注意される(寺伝では瑪瑙と記しているが、これは誤りである)。また、川原寺から出土する創建時の瓦は「複弁蓮花文瓦」と呼ばれる、8枚の花びらのそれぞれを2つに分けた形式の複雑なデザインのもので、これが以後の瓦文様の主流となった。
※この「伽藍配置」の解説は、「川原寺」の解説の一部です。
「伽藍配置」を含む「川原寺」の記事については、「川原寺」の概要を参照ください。
伽藍配置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 17:25 UTC 版)
広渡廃寺跡は、1973年(昭和48年)から1975年(昭和50年)と1993年(平成5年)から1997年(平成9年)にかけて発掘調査が実施され、主要伽藍の配置と寺域規模が明らかとなった。金堂と中門の間に東西両塔を配し、金堂の背後に講堂をおき、これらを回廊で取り囲むという薬師寺式伽藍配置であり、寺域は現地形から判断して、東西約100メートル、南北約150メートルの規模であったと推測されている。回廊により囲まれた中心伽藍の範囲は、東西約60メートル、南北約90メートルで、地形の影響か、地域的な特徴なのか、他の寺院に比べて非常に南北の長さが長くなっている。 広渡廃寺跡は、中門からのびて講堂に取り付くはずの回廊が、北に設けられた北門へと繋がり、講堂も取り囲んでいる。また中心となる建物しか配されない回廊内に、鐘楼や蔵などの施設とみられる基壇が金堂の両脇に設けられており、僧侶の生活の場である僧坊以外の建物が、回廊内におさまっているという特徴的な状況となっている。また中門に近接して南大門があり、それに取り付く築地や通路としての階段も確認されている。
※この「伽藍配置」の解説は、「広渡廃寺跡」の解説の一部です。
「伽藍配置」を含む「広渡廃寺跡」の記事については、「広渡廃寺跡」の概要を参照ください。
伽藍配置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/08 07:47 UTC 版)
円形の壁に囲まれた寺域の中央には、他の諸堂にくらべひときわ高い本堂があり、本堂の周囲には4つの大きな堂と小さな2つの堂、4色の仏塔が配置されており、このような建物配置は上述のように、巨大な曼荼羅を模したものである。 本堂は世界の中心にそびえるスメール山(須弥山)を現し、四隅にある他の建物と本堂の東西南北は大陸と仏教宇宙の他の造作を現す。すなわち、4つの大きな堂は四大部洲(四大大陸)をあらわし、南方のインド亜大陸、西方のオアシス世界、北方は北アジアの遊牧世界、東方は東アジアの中国世界を指すと見なされる。さらに本堂の両脇にある円形と半月形の2堂は太陽と月をかたどっている。 本堂は数多くの宗教壁画や仏像、重要な歴史的遺物もある。この寺に多くのチベット人仏教徒が巡礼に訪れ、それは何週間もかかる場合もある。
※この「伽藍配置」の解説は、「サムイェー寺」の解説の一部です。
「伽藍配置」を含む「サムイェー寺」の記事については、「サムイェー寺」の概要を参照ください。
伽藍配置と同じ種類の言葉
- 伽藍配置のページへのリンク