「高貴な野蛮人」の前史
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「高貴な野蛮人」の記事における「「高貴な野蛮人」の前史」の解説
近代的な意味での「高貴な野蛮人」と言う概念は、17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパ紀行文学において発生したが、タキトゥスが西暦98年頃に記した『ゲルマニア』はその先駆例だと考えられている。「高貴な野蛮人」と言う概念の原点として他に挙げられるのが、「イスラエルの失われた10支族」伝説と「プレスター・ジョン」伝説で、彼らは太古の昔において西洋人と宗教的な縁戚関係にあり、植民地に所在する先住民の中から彼らを見つけ出すことが、殖民地調査の目的の一つとしてあった。「高貴な野蛮人」として扱われる別の例として、モンゴル帝国の皇帝(大ハーン)が挙げられる。 ヨーロッパ人によるアメリカ大陸の発見以降、先住民を指して言う「野蛮人」との言葉は、植民地主義を正当化するために軽蔑的に使用された。「野蛮」の概念は、先住民が既に実用的な社会を構築しているという可能性を考慮せずに一方的に植民地を設置するための、かりそめの権利をヨーロッパ人に与えた。 16世紀末から17世紀にかけて、ヨーロッパ人がフランス宗教戦争(ユグノー戦争)と三十年戦争の苦難に包まれる中で、「野蛮人」の姿がヨーロッパ文明に対する非難として立ち上がってくるようになり、この存在は次第に「良き野蛮人」と綴られるようになる。ミシェル・ド・モンテーニュは、彼の有名なエッセイ『Of Cannibals(人食い人種について)』(1580年)において、ブラジルのトゥピナンバ族が名誉の問題によって死んだ敵の遺体を儀礼的に食べていると報告した。しかしまたモンテーニュは(彼自身はカトリック教徒だったが)、ヨーロッパ人が宗教的な見解の相違の問題によって互いに生きたまま火あぶりに処しあうことを仄めかし、ヨーロッパ人の振る舞いはもっと野蛮ですらあることを、読者に思い起こさせた。曰く「人は、見慣れない物は何でも『野蛮』と呼ぶ」。 テレンス・ケイブ(イギリスの文学者)の解説によると、 人食いという習慣は(モンテーニュによって)認められていますが、しかし複雑でバランスのとれた慣習と信念の体系の一部分であるから、その行為自体が「理にかなった」ものとして描写されています。彼らは勇気と誇りに関して強力にポジティブな倫理に従っており、それはヨーロッパ近代初期の名誉の規範に訴えるであろう物であり、そして、拷問や野蛮な処刑方法などと言った、明白に魅力に欠けるものとして表現されるフランス宗教戦争(ユグノー戦争)の行動様式とは対照的であり…(以下略) 『人食い人種について』では、モンテーニュは風刺目的で文化相対主義(ただし道徳的相対主義ではない)を使用していた。原住民の人食いは高貴でも並外れて優れているわけでもなかったが、同時にまた、彼らは同時代の16世紀のヨーロッパ人より道徳的に劣ることが示唆されていたわけでも無かった。古典的人道主義者と評されるモンテーニュは、「一般的に人類は、たとえ風習は異なっても、さまざまな形をとって残虐行為をしがちである」と描写しており、そしてそのような人類の特質をモンテーニュは嫌っていた。デビッド・エル・ケンツ(フランスの研究者)の解説によると、 モンテーニュは著書『随想録』において(中略)フランス宗教戦争における初期の3つの戦争(1562〜63、1567〜68、1568〜70)を非常に具体的に論じました。彼は個人としてこの戦争に参加しており、フランス南西部の国王軍の側に付いていました。サン・バルテルミの虐殺をきっかけに、彼は退役してペリゴール地方の故郷に帰り、1580年代まですべての公務において沈黙を守りました。このように、彼は虐殺でトラウマを負ったようです。「残酷さ」は彼にとって、彼が理想化していた過去の紛争とフランス宗教戦争とを区別する基準でした。モンテーニュは、通常の戦争から内戦の大虐殺へと移行したのは次の3つの要素が理由だと考えました。すなわち、戦争への民衆の介在、宗教的扇動、そして紛争の泥沼化です(中略)彼は狩猟のイメージを通じて残酷さを描写することを選択しました。血と死に関連することを理由として、狩猟に対しては批判が伝統的について回りましたが、この慣習が貴族としての生活の一部であった以上、それはまだまだ非常に驚くべきことでした。モンテーニュは狩猟を都市における虐殺場面として描写することによって悪罵しました。加えて言うと、人間と動物の関係によって、彼は徳行(virtue)を定義することができました。彼は徳行を残酷の反対として表現しています。(中略)個人的な感覚に基づく、(中略)一種の生得的な慈悲として。(中略)モンテーニュは、動物に対する残虐行為の性向を、人間に対して行使されるそれと関連付けました。結局のところ、「サン・バルテルミの虐殺の後、シャルル9世がルーヴル宮殿の窓からユグノーどもを撃った」というでっち上げのイメージは、王のハンターとしての確立された評判と、ハンティングに対する「残酷で歪んだ慣習だ」という烙印、これらが組み合わさったものではなかったでしょうか? — David El Kenz、Massacres During the Wars of Religion スペイン人コンキスタドールによる先住民族の扱いも、多くの罪の意識と逆非難を生み出した。コンキスタドールの暴虐を目撃したスペインの司祭バルトロメ・デ・ラス・カサスは、アメリカ先住民族の単純な生活を理想化した最初の人物であった可能性がある。ラス・カサスらは先住民族を観察して、その単純な作法を賞賛し、特にバリャドリッド論争の過程で、彼らは嘘をつくことができなかったと報告した。 植民地主義を巡ってのヨーロッパ人の苦悩は、西インド諸島のスリナムにおける奴隷反乱を扱ったアフラ・ベーンの小説『オルノーコ』(1688年)のような、フィクション作品における処遇に現れている。ベーンの物語は基本的に奴隷制に対する抗議ではなく、むしろお金儲けのために書かれたもので、ヨーロッパのロマンス小説のお約束に従うことで読者の期待に応えたものであった。反乱の指導者オルノーコは、世襲のアフリカの王子であり、遥かなるアフリカの故郷を哀悼するにあたって古典的黄金時代を語る際の伝統的な表現を用いているという点で本物の貴人である。彼は野蛮ではないが、ヨーロッパの貴族のような服を着て、ヨーロッパの貴族のようにふるまう。ベンの物語は、感傷的な側面を強調したアイルランドの劇作家トーマス・サザーンによって舞台化され、時が経つにつれて、奴隷制度と植民地主義の問題を扱った作品と見なされるようになり、18世紀を通じて大きな人気を維持した。
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