鶴田浩二 人物像

鶴田浩二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/05 16:15 UTC 版)

人物像

  • 生前の右寄りの言動、また多くの軍歌を歌ったことや戦争映画の主演から「右翼」と評されることもあり、実際に右翼の街宣車による街頭行動の際、彼が唄う曲が流されることが多い。ただし鶴田自身は街宣右翼の言動に対しては不快感を露わにしていたという。「博奕打ち 総長賭博」を絶賛していた鶴田ファンの三島由紀夫と雑誌で対談して以来、同い年ということもあり親交を温めるようになる。反面、戦争指導者を憎むこと甚だしく、「東條英機は切腹するべきであった」(東條は拳銃で自決を図ろうとして失敗)、「特攻隊は外道の戦術」と公に批判していた(軍歌『同期の櫻』を唄う際には、涙ぐみながら唄う姿が見られた)。
  • 映画芸術』1968年1月号での三島由紀夫大島渚の対談で、以下のやりとりがある(司会は小川徹)。小川「やくざ映画というのが最近はやって来ましたね」 三島「僕は大好きです」 小川「どういう風に好きですか?」 三島「鶴田浩二が好きなんですよ。よく東映に行くんですよ、恥ずかしくてね。モギリの女の子に顔見られるのがね」 小川「試写でもやらなくなったしね」 三島「ええ、それで、高倉健というのは僕あまり好きじゃないんですよ。あまり、颯爽としててね、反感持つね、嫉妬かもしれないけど、鶴田が好きです。ちょっと疲れた目の下がだぶってきて、何かじっと考えるでしょ、考えることなんか何もないですよね。だけど考える」 小川「そこがいいんですか」 三島「たまんないですよね、あれが。僕もああいう瞬間になったら、人間というのはね、こんな偉そうな空虚な議論してるときよりも、本当、考えるかもしれない。文士がものを考えるとか悩むとかということを、いろいろ小説で書いてるけどね。ああいうときの鶴田の悩み、分かってなくちゃいけないと思う。そうするとその結果おこることはね、子分のために身を捨てるとか、女のおために切り込むとか、もう愚かな結果しかない。だけど人間結果で判断しちゃいけないですからね。あの悩んでるときの鶴田はありゃ深刻ですよ。いつも必ず、やっぱり悩むんです。着物着てね。こうじーっと考える。その考えてる顔いいですよ。ホント」 大島「正直にいえば何も考えてないんですけどね。考えないある時間があるんですね、鶴田には。おそらく考えないんだと思うんです、ホントには。やっぱりこれは戦中派のいいとこで、ある考えないでやっている時間があったんだな」 三島「あったんだんだと思う。あいつね、自分の生活体験の中にあったんだと思う。そこまで役者をバカにしちゃ可哀想だと思う。やっぱりあった、必ず、それがにじむよ」 大島「そんな短時間でね、考えられる問題じゃないですよ。考えないんだけど行かなきゃならんというと、僕はあの顔にならざるを得ないと思う」 三島「あの顔はいいね。どうしても行かざるを得ないという前のね」 大島「どうしても行かなきゃならないという結果はもう分かっている。その前はね、もう考えるにはね、あまりにもう時間が短いんだよ」[13]
  • 特攻基地を飛び立つ戦友たちを見送っていった鶴田は、シベリアで倒れていった戦友たちを見ていた作曲家吉田正と親交が深かった。「鶴さん」「吉さん」と呼び合う仲で、鶴田のヒット曲のほとんどは彼の作曲のもの。
  • 鶴田は、我が物顔で撮影所を闊歩する山本麟一に対して、態度が悪いとケンカを吹っかけたことがあり、「鶴田さん止めましょう」と仲裁する高倉健の忠告を無視して挑発を続け、仕方なく応じた元ラグビー部である山本のタックルを受けて卒倒したことがある。その後の鶴田と山本の人間関係は良好になった。
  • 山本麟一が闘病生活を送っていた際、鶴田は病室の彼を見舞っている。看護婦や入院患者にサイン、握手など気さくに応じたという。悪役ばかり演じていて一般の方のイメージがよいとはいえなかった山本だが、「あの大スター鶴田浩二がわざわざ見舞うほどの人物なのか」と、評価が一変する。その後は山本に対する病院側の扱いがよくなったため、山本と山本の妻からとても感謝されている。
  • 川谷拓三は駆け出しの大部屋俳優のころ、がんを宣告され余命いくばくもない兄のために、兄が大ファンだった鶴田に「どうか兄に一目会ってもらえませんでしょうか。お願いします!」と、無茶なお願いをした。大部屋俳優と大スター、本来なら声をかけることも許されない立場ではあったが、川谷の心情を察した鶴田は「ワシの顔見て、死んで行けるんならそれも供養や。行ってやるよ」と兄の入院する病院へ駆けつけた。鶴田と会うことのできた兄は数時間後に息を引き取ったが、死顔は安らかで満足そうであったという。これが縁で鶴田の付き人となり、鶴田の複数の主演映画で端役のチンピラを演じることとなる。鶴田の没後しばらくして、川谷はその恩に報いるため、回想番組に出演し、思い出話を語っている。
  • ダン池田はニューブリードのバンドマスターとして、「紅白歌合戦」や「夜のヒットスタジオ」で指揮をしたミュージシャンだが、鶴田が出演する際は手書きの楽譜を持参し、必ず楽屋に挨拶に来てくれたと自署『芸能界本日モ反省ノ色ナシ』で回想している。「私は歌の方は素人です。芸術家の皆さん、何とかひとつよろしくお願いします」と大スターの鶴田が頭を下げていくため、背筋が伸びる思いだったという。
  • ただ、鶴田の評判は必ずしも良好なものばかりではなく、好き嫌いが激しく屈折したプライドから周囲との衝突や暴言も多かったとされる[注釈 5]。撮影所において宇野重吉加藤泰三國連太郎とは口も利かなかったという。何か伝言しなくてはならないときには人を介し行った。その場合丹波哲郎が多かった[14]。誰とでも分け隔てなく鷹揚な丹波は性格的に正反対で、普段は苦手としていたが、戦時中、航空隊整備士官だった共通点もあり、人間的には相通じるものがあった。
  • 山城新伍は自著[要文献特定詳細情報]で「当時は、新人俳優が楽屋周りを掃除することが慣習的になっていたが、“俺は芝居をやりに来たんだ。掃除しに来たんじゃねぇ!”って突っ張って一切の雑務を行わなかったし、若山先生側にいたこともあって、鶴田さんとか先輩からかなり嫌われた。かなりとんがってたからね」と述懐した。鶴田の存命中からラジオ番組で 「殺したい俳優がいて鶴田浩二という」 など実名をあげて非難していた。一例として 「あの人は必ず遅れてくる、それもわざと。あの人が大スターだというのは誰でも知っている。それをみんなの前でやらないと気が済まないんだ。1時間、2時間経っても鶴田さんが来ない。監督も痺れを切らして次の撮影に移行する。そうすると判で押したように鶴田さんが来て監督の横に椅子を置き撮影を見ている。おもむろに 〝監督、俺は誰だ?〟 はい? 〝俺は誰だと聞いているんだ?〟 鶴田浩二さんです。〝鶴田浩二だろう? 俺の撮影を先にやろう!〟 と言って現在の撮影をストップさせ自分の撮影に入らせる。そして悠然と撮影所を後にする。それの繰り返しで、それをみんなの前でわざとやるんだよ、あの人は!」と述べている。
  • 反面、頼まれれば引立て役として若手を育てるため助演するのも厭わず、東宝移籍時に助監督だった福田純が監督昇進した第1作『恐るべき火遊び』に自ら申し出てワンカットだけ出演し、第2作『電送人間』にも主演した[15]佐原健二が『空の大怪獣ラドン』撮影中に大怪我をした際に撮影を強行したことを知った鶴田は「佐原健二を殺す気か!」と東宝演技課に怒鳴り込んだ[16][17]。東映でも松方弘樹梅宮辰夫などを公私にわたり可愛がり、松方は俳優だけでなく人生の師匠としても鶴田を慕い、葬儀では号泣した。
  • 無類の野球好きとしても知られ、鶴田ヤンガースなる私設野球チームを率いたことがある。

「特攻崩れ」の虚実

上の記述の通り元海軍軍人である。若き特攻隊員の苦悩を描いた『雲ながるる果てに』(家城巳代治監督、1953年)に主演して以来、特攻隊の出身、特攻崩れだとしていたが、実際には元大井海軍航空隊整備科予備士官であり、出撃する特攻機を見送る立場だった。戦後、元特攻隊員と称するようになる者は多く、一つの流行でもあったが、鶴田はあまりにも有名人であるため同隊の戦友会にばれ猛抗議を受けるが、一切弁明はしなかった。黙々と働いては巨額の私財を使って戦没者の遺骨収集に尽力し、日本遺族会にも莫大な寄付金をした。この活動が政府を動かし、ついには大規模な遺骨収集団派遣に繋がることとなった。また、各地で戦争体験・映画スターとしてなどの講演活動も行った。生涯を通じて、亡き戦没者への熱い思いを貫き通した。これらの行動に、当初鶴田を冷ややかな目で見ていた戦友会も心を動かされ、鶴田を「特攻隊の一員」として温かく受け入れた。一方、鶴田の死後の娘の回想によると戦友会等からの苦情は一切なく、それは搭乗員ではなくとも鶴田を自分たちの一員と認めた元隊員らの配慮によるものだったと理解し感謝していたという。

特攻隊生き残りの経歴については、映画会社が宣伝の一環で捏造し、本人も積極的に否定せず、特攻崩れを自称する当時の風潮に迎合しただけというのが実情とされている。特攻隊員を見送る立場であった経験から、実際の特攻隊の生き残りよりも本物らしく演じ、『男たちの旅路』においてはこのイメージが最大限に活用された。第4部「流氷」では鶴田演じる吉岡司令補を杉本警務士(水谷豊)が「“あの頃はみんな純粋だった”だの、そんなに美化していいのか」と厳しく責めるシーンもある。


注釈

  1. ^ 資料によっては、「静岡県出身」としている[2]
  2. ^ つまり、鶴田は私生児である。
  3. ^ 関西大学推薦校友(中退者で社会的に功績のあったものを認定千成会
  4. ^ 俊藤は1994年の『映画芸術』のインタビューで、鶴田の移籍経緯について「東宝へ行ったときは三船敏郎さんと五分でオモロイものを作ってたけど、だんだんと扱いが悪くなって鶴田さんも嫌気がさしてたんや。そこで、今の東映会長の岡田茂さんが『鶴田浩二はいい役者だ。東映に引っ張ったらどうか』と。その話が鶴田さんに行って、鶴田さんが私んとこへ相談に来たゆうわけや。当時、五社協定で役者の所属がうるさかったんや。『東映から来ないかゆうてきたけど、兄貴、どやろ?』『今の東宝でこのままいたら、お前、潰れるぞ。ええ話やないか。ほなオレが話そう」。それで坪井与(與)さんに会うたら『是非来てくれ』と。東宝の藤本真澄プロデューサーに会うたら、向こうは一も二もなくや。まあそんなことで東映とは繋がりができたんだ」と話している[7]
  5. ^ 共演もある俳優 川地民夫も回想記『平成忘れがたみ』(たる出版、2008年)で、鶴田の屈折した一面を描いている。
  6. ^ ノンクレジット。
  7. ^ 遺作。

出典

  1. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月19日閲覧。
  2. ^ a b c d e f g h i 東宝特撮映画全史 1983, p. 532, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  3. ^ a b c d e ゴジラ大百科 1993, p. 125, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  4. ^ NBonlineプレミアム : 【岡田茂・東映相談役】テレビとヤクザ、2つの映画で復活した - ウェイバックマシン(2006年7月24日アーカイブ分)
  5. ^ 岡田茂『波瀾万丈の映画人生:岡田茂自伝』角川書店、2004年、148-149頁。ISBN 4-04-883871-7 松島利行『風雲映画城』 下、講談社、1992年、105頁。ISBN 4-06-206226-7 
  6. ^ a b c 俊藤浩滋山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、92-98頁。ISBN 4-06-209594-7 
  7. ^ a b c 俊藤浩滋「インタビュー マキノ雅弘を送る人情、ペーソス、ロマン、夢そして素晴らしいスタッフたち」『映画芸術』1994年春号 No.371、プロダクション映芸、58頁。 
  8. ^ a b 東映株式会社『クロニクル東映:1947-1991』 1巻、東映、1992年、170-171頁。 
  9. ^ 歴史|東映株式会社〔任侠・実録〕 - ウェイバックマシン(2018年3月7日アーカイブ分)
    東映キネマ旬報 2007年春号 Vol.2 | 電子ブックポータルサイト 2-9頁[リンク切れ]
    東映キネマ旬報 2011年夏号 Vol.17 | 電子ブックポータルサイト 4-7頁(2014年10月31日時点のアーカイブ
    人生劇場 飛車角/東映チャンネル
    『私と東映』 x 沢島忠&吉田達トークイベント(第1回 / 全2回)
  10. ^ 滝沢一「鶴田浩二氏の死を悼む 生涯主演スターを通した男」『キネマ旬報1987年昭和62年)7月上旬号、キネマ旬報社、1987年、107頁。 
  11. ^ 高倉健、菅原文太と付き合った暴力団幹部は「逃げ切り世代」」『現代ビジネス』2015年1月15日、2021年9月24日閲覧 
  12. ^ 番組エピソード 土曜ドラマ『山田太一シリーズ 男たちの旅路』”. NHKアーカイブス. 日本放送協会. 2021年9月24日閲覧。
  13. ^ 三島由紀夫大島渚小川徹「新春対談 三島由紀夫・大島渚 ファシストか 革命家か =羽田事件と暴力の構造を追求する=」『映画芸術』1968年1月号 NO.244、編集プロダクション映芸、31頁。 
  14. ^ 丹波哲郎、ダーティ工藤『大俳優 丹波哲郎』ワイズ出版、2004年、[要ページ番号]頁。ISBN 4-89830-170-3 
  15. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 49, 「『電送人間』撮影秘話」
  16. ^ 「対談 佐原健二×水野久美」『円谷英二特撮世界』勁文社、2001年8月10日、68頁。ISBN 4-7669-3848-8 
  17. ^ 別冊映画秘宝編集部 編「佐原健二(構成・文 友井健人/『宇宙船116号』〈朝日ソノラマ2005年〉と『初代ゴジラ研究読本』などを合併再編集)」『ゴジラとともに 東宝特撮VIPインタビュー集』洋泉社〈映画秘宝COLLECTION〉、2016年9月21日、58頁。ISBN 978-4-8003-1050-7 
  18. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 39, 「『日本誕生』俳優名鑑」
  19. ^ 東宝特撮映画大全集 2012, p. 47, 「『電送人間』俳優名鑑」
  20. ^ NHKビッグショー』「鶴田浩二 男の詩」より。[信頼性要検証]


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