魏攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/04 06:46 UTC 版)
魏攻略 | |
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戦争:秦の統一戦争 | |
年月日:紀元前225年 | |
場所:大梁 | |
結果:魏の滅亡 | |
交戦勢力 | |
秦 | 魏 |
指導者・指揮官 | |
王賁 | 魏王假 |
魏攻略戦(ぎこうりゃくせん)は、紀元前225年に秦が魏を滅ぼした戦い。
概要
戦国七雄のうち韓・趙[注 1]・燕[注 2]が滅び、秦は魏の攻略を本格的に行った。函谷関の戦いの直後から秦の攻撃は始まっていて、敗戦を重ねていた。
紀元前226年、秦の将軍王賁はまず楚を攻め、楚軍を大いに破って10余りの城を落とした。その後、北上して魏を攻め、国都大梁を包囲した[1][2][3]。当時、楚は防衛に専念していて、斉は傍観していた[4]。よって援軍が来るあてもなかった。
大梁は睢水、潁水、鴻溝の交差する位置にあり、城を囲む堀は非常に広く、守るに易く、攻めるに難い城であった。そのため、秦軍の攻めを寄せ付けなかった。そこで王賁は、大梁に黄河の水を引いて水攻めにした。3か月後、大梁の城壁が破壊され、魏王假は降伏し、魏は滅亡した[1][5]。魏王假は処刑され[5]、魏の諸公子も皆殺しにされたという[6]。
かつて信陵君は安釐王に、「韓が滅亡した後、秦が軍を進めてくるとなればそれは魏となるでしょう。秦は既に懐、茅、邢丘を領有し、垝津に城を築いて河内に侵攻する準備を整えれば、河内の共と汲は危機に瀕することになります。また、秦は鄭の地を有し、さらに垣雍を得ることができれば、熒澤の水を引き込んで大梁を水攻めにすることができ、そうなれば大梁は必ず滅びるでしょう」と進言しており、秦が魏を滅ぼした戦略について予見している[7]。
脚注
引用
- ^ a b “『史記』秦始皇本紀”. ja.wikisource.org. 2025年9月3日閲覧。
- ^ “『史記』白起王翦列伝”. ja.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
- ^ “『史記』楚世家”. ja.wikisource.org. 2025年9月4日閲覧。
- ^ 島崎晋 (2019年3月). 《春秋戦国の英傑たち》97p. 双葉社. ISBN 9784575457889
- ^ a b “『資治通鑑』第七卷 秦紀” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月3日閲覧。 “王賁伐魏,引河溝以灌大梁。〔春〕,三月,城壞。魏王假降,殺之,遂滅魏。”
- ^ “『列女伝』節義伝” (中国語). zh.wikisource.org. 2025年9月3日閲覧。 “秦攻魏,破之,殺魏王瑕,誅諸公子”
- ^ 《史記·魏世家》:夫韓亡之後,兵出之日,非魏無攻已。秦固有懷、茅、邢丘,城垝津以臨河內,河內共、汲必危;有鄭地,得垣雍,決熒澤水灌大梁,大梁必亡。
参考文献
- 島崎晋 (2019年3月). 《春秋戦国の英傑たち》95~97p. 双葉社. ISBN 9784575457889
魏攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 07:54 UTC 版)
詳細は「魏攻略」を参照 紀元前225年、王翦の子の王賁が60万の兵を率いて、魏を攻めた。魏王假は国都大梁に籠城し、水攻めを受けた。魏王假は降伏し、魏は滅亡した。
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