青騎士
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後世の芸術に与えた影響
青騎士の芸術家たちは、今まさに世界は大きな転換期を迎えていると感じていた。旧きに代わって新しい時代を創造的に切り開いていくためには、芸術の通奏低音に耳を傾け、「内的必然性」に基づいた精神を求めなければならない。このような理想主義的な志向、言い換えれば物質主義が蔓延し頽廃した文明世界に対して、ユートピアの建設を目指そうとする発想は、青騎士にとどまらず、世界大戦へと漸進する暗雲の立ち込めつつあったヨーロッパの不安と無関係ではなかった。こうして青騎士ではいわば、芸術における革命が標榜され、また実際に革命的影響を与えていった。
芸術の抽象化
絵画
印象派に端を発し、モネ、ゴーギャン、スーラ、ドローネーなどによって達成されたフォルムの解放という革新は、青騎士のもとで更なる発展を遂げた。カンディンスキーは、音楽という芸術表現の持つ究極的抽象性を強く意識し、その構成的要素を絵画に適用しようとした。明確な輪郭を具えた描写対象は融解し、色彩とフォルムによる純粋で構成的絵画が求められた。芸術における構成的要素にはマルクやマッケも関心を寄せている。カンディンスキーを含め、セザンヌを崇拝した彼らは描写的絵画を支配しているアカデミックな旧い法則に取って代わる、新しい表現の規範となる法則を見出す必要に気付いていたのである。こうして青騎士は、描写から解放された抽象絵画を生む母体となった。
殊に、青騎士時代のカンディンスキーの作品は、いっそう構図の追求に向かっている。彼の油彩作品のほとんどは、その準備段階のスケッチやデッサン、水彩といったものが残されているが、そこに含まれるモティーフは以前とあまり変わらないものの、その何度も現れるイメージは抽象的形態へと変えられている。1913年にはほぼ、彼は非形象絵画への移行を終わらせたが、それはしかしカンディンスキーについてのみ言えることであった。青騎士は確かに抽象絵画の素地となったが、この時点で抽象主義へ到達したのはメンバーのうちでもカンディンスキーだけであったのである。
音楽
シェーンベルクによって、それまで根本的原理であった調性からの脱却が試みられた。それだけにとまらず、次節で述べる総合芸術的運動にも音楽は組み込まれていく。
おもにカンディンスキーによって進められた精密な理論的技術的探究に基づく芸術の構造的分析は青騎士の共通意識となり、諸芸術の伝統的意義を覆すものとなった。青騎士におけるこのような方向性は、バウハウスにおけるクレーとカンディンスキー、そしてシェーンベルクとその弟子ヴェーベルンによって受け継がれた。
総合芸術と青騎士
芸術における通奏低音の探究を目指した青騎士においては、絵画や音楽といった個別的表現を超えた総合、統合が希求された。その意味で、ワーグナーの総合芸術観は、青騎士に多大な影響を及ぼしている。しかしワーグナーによる総合の原理は、個別の表現要素を外面的に結びつけて荘重な効果を狙うだけのものであった点に、諸芸術の枠を超えて魂の振動が共鳴しあうことを目指す青騎士の理念とは差異があった。カンディンスキーは『青騎士』を、音楽と色彩と舞踏とが共鳴しあう独自の舞台構想である『黄色い響き』で締めた。こうしてカンディンスキーは青騎士において、ワーグナーの外面的必然性に依拠する総合理念を乗り越えたのである。しかし舞台化の予定はあったものの、結局この作品はカンディンスキーの生前には上演されなかった。
芸術における諸分野の総合、という理念はその後のヨーロッパにおいて幾度も現れる。青騎士と同時代19世紀末のアール・ヌーヴォーやユーゲント・シュティルは美術と工芸、芸術家と職人のヒエラルヒーをなくそうとするものであり、またバウハウスの創立理念や、構成主義が提唱したデザインによる芸術と生活の融合もまた総合的である。その後もメゾン・キュビストたちや未来派、チューリヒおよびベルリン・ダダ、メルツバウといった諸運動にも総合的性格があるといえる。
ナチスによる弾圧
現代美術、特に19世紀半ば以降の芸術を理解せず毛嫌いしたナチスは、それらを「頽廃芸術」であると一方的にみなし、美術館などから作品を没収し芸術家に制作を禁じるなどして強力に弾圧した。ドイツ表現主義の作品もそのやり玉にあげられ、青騎士に属していた芸術家たちも例外ではなかった。
クレーは1931年、デュッセルドルフのプロイセン美術アカデミー絵画教室主任に招聘され、バウハウス教授を辞して赴任したが、33年にナチスが政権を取ると職を追われスイスのベルンにもどった。クレーはそこで市民権を申請するも、ナチスによって頽廃芸術家の烙印を押されていたがためにかなわなかった。33年3月にはナチスによってバウハウスが閉鎖され、当時そこで教授を務めていたカンディンスキーは職を失いパリに逃れた。頽廃芸術の糾弾は音楽にも波及し、頽廃音楽家とみなされたシェーンベルクは1933年には亡命を余儀なくされアメリカに移住し、かの地に帰化して自身の名前からウムラウトを消した。
1937年には、カンディンスキーの作品57点が没収された。フランツ・マルクも、本人は一次大戦中に亡くなっていたが作品は美術館から押収された。
没収された作品は隠匿され、国外に売却されたりナチス高官の手に収まったり、また一部は焼却処分されたりした。こうして四散した作品には現在も所在の分からないものもある。たとえば、マルクによる1913年制作の「青い馬の塔」(独:Turm der blauen Pferde)は、1937年にナチスによりベルリンのナショナルギャラリーから没収され、行方不明のままである。マルクの好んだ「青い馬」のモティーフに対してヒトラーは「青い馬などこの世にいるわけがない」[注釈 2]という旨の言葉を残している。
レンバッハハウスにおける青騎士
カンディンスキーがミュンヘンを離れたあとの1920年代に、ムルナウの画家たちの間に作品の所有権についての法律上のいさかいが起こった。これは、ガブリエレ・ミュンターがカンディンスキーの作品を大量に保有するという益を受けていたことが一因であった。しかし、カンディンスキー本人に絵を贈られていたミュンターは、ナチ時代には膨大な量のカンディンスキーや青騎士の芸術家たちの絵画を家の地下室に隠した。1957年、自身の80歳の誕生日に際、遺産の大部分をミュンヘン市に寄贈した。内訳は、25の自筆の絵と90のカンディンスキーの油彩および300の水彩画であった。こうして青騎士の作品は、ミュンヘン市レンバッハハウス美術館を代表する重要なコレクションにしたのである。
注釈
出典
- ^ 『青騎士』 - コトバンク
- ^ 高階秀爾(監修)『まんが西洋美術史3』美術出版社 1994年 p.78 ISBN 4-568-26003-5
- ^ Ibid. p.p.78-79
- ^ マリサ・ヴォルピ・オルランディーニ(著), 乾由明(訳)『カンディンスキーと青騎士』ファブリ/平凡社 昭和49年 p.13
- ^ 西田秀穂 年刊誌《青騎士》の表紙絵 「東北大学文学部研究年報」1966年通号16 p.41
- ^ 『カンディンスキーと青騎士』p.13
- ^ Wassily Kandinsky: Über das Geistige in der Kunst, zit. nach Taschenbuchausgabe München 2002, S. 93 から翻訳
- ^ カンディンスキー/マルク(編)、岡田素之・相澤正己(訳)『青騎士』白水社 2007 p.5 ISBN 978-4-560-02713-4
- ^ 『カンディンスキーと青騎士』p.19 および 『青騎士』
- 1 青騎士とは
- 2 青騎士の概要
- 3 歴史
- 4 青騎士の芸術運動
- 5 青騎士と周辺の芸術家たち
- 6 後世の芸術に与えた影響
- 7 脚注
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