義烈空挺隊 出撃

義烈空挺隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 21:48 UTC 版)

出撃

義号作戦発令

出撃前の閲兵を受ける義烈空挺隊指揮官奥山道郎大尉(左)と輸送機隊編隊長諏訪部忠一大尉(右)、軍服の色の濃い部分は手製の迷彩

1945年(昭和20年)4月には沖縄に連合軍が侵攻し沖縄戦が始まったが、5月になって沖縄に日本軍が構築しながらアメリカ軍に奪取された各飛行場にアメリカ軍の陸軍航空隊や海兵隊の航空機多数が進出しており、日本軍の特攻を主体とする沖縄方面への航空作戦の大きな障害となっていた。日本軍は陸軍の重砲による砲撃や、陸軍重爆撃機、海軍芙蓉部隊などの空襲により執拗に沖縄のアメリカ軍飛行場を攻撃し続けていたが、飛行場機能に支障をきたす様な損害を与えることはできず、逆にアメリカ軍の航空戦力は強化される一方であった[18][19]。 大本営は、第32軍の沖縄南部への撤退と特攻作戦の援護のため、残された航空戦力を集中して沖縄のアメリカ軍飛行場を攻撃することとし、5月下旬に開始される予定の菊水七号作戦で義烈空挺隊による沖縄本島の飛行場への空挺特攻作戦(義号作戦)を決行することとし、義烈空挺隊は西筑波から熊本県健軍に移動して第6航空軍の指揮下に入った[20]。参謀本部は、義烈空挺隊輸送機として九七式重爆撃機12機、飛行場夜間爆撃機として四式重爆撃機12機、九九式双発軽爆撃機10機の投入を命じ[21]、海軍の第五航空艦隊司令長官宇垣纏中将は義号作戦を援護するため、一式陸上攻撃機17機、銀河13機[22]、それに護衛として夜間戦闘機12機の投入を決定した[21]。義号作戦とそれに伴う夜間爆撃は、過去最大規模での沖縄のアメリカ軍飛行場への夜間攻撃となった。宇垣はより爆撃効果をあげるため、爆撃機に時限爆弾を搭載させて出撃させている[23]

義号作戦の決定には紆余曲折があった。義烈空挺隊は第6航空軍の指揮下ではあったが、その使用には大本営の許可が必要であった。第6航空軍は義烈空挺隊投入の機会をうかがってきたが、4月中旬になって沖縄のアメリカ軍飛行場の強化が進むと投入の好機と考えて、第6航空軍司令官の菅原道大中将は大本営に高級参謀の井戸田勇大佐を派遣し、使用の許可を求めた。井戸田の陳情に対して参謀本部第1部長宮崎周一中将は、「近日中に現地に出向くからその時に検討しよう」と返事を先延ばしした。その後も菅原は矢のように催促を行った結果、5月2日に「義号作戦」の準備命令は下ったが肝心の作戦命令はまた先延ばしとなった。大本営が義烈空挺隊の投入を渋ったのは、5月3日に開始された第32軍による総攻撃が失敗に終わり、見込みの薄い沖縄に日本陸軍最精鋭の義烈空挺隊を投入するのは惜しいと考えて、きたる日本本土決戦のために温存しておこうという目論見があったからとされる。その後に約束通り宮崎が福岡に訪れたが、手ぐすね引いて待っていた第6航空軍は、司令官の菅原自ら宮崎に対して「特攻隊に指定されて既に半年、計画しては取りやめになること再三に及ぶは、その心情忍び難い」と決断を即した。宮崎は即答を避けたが、東京に帰るや即時に義烈空挺隊投入を決定して「義号作戦認可せらる」という許可の電文を打電させた。菅原らは参謀本部の許可は期待しておらず、翌5月18日に九州に訪れる予定であった陸軍大臣の阿南惟幾大将にも直談判する準備中であった[24]

作戦目標

完全装備で閲兵を受ける義烈空挺隊員

大本営の許可はとったものの、沖縄戦の大勢も決し時期を逸した戦況に、菅原は作戦の決行を躊躇したが、これまで何度も出撃が中止となってきた奥山が「空挺隊として若し未使用に終わるようなことになっては何の顔(かんばせ)あって国民に相まみえん」「当局の特別なる保護と、世上の絶大な尊敬に対して、武人の最期を飾るべき予期の戦場さえ与えられないとなると、国民国家に対して顔向けができようか」と心中を吐露していたことを知って、菅原は「部下に死に場所を与える」という感情に流されて出撃命令を下した[25]。また、なかなか義烈空挺隊の使用許可を出さなかった大本営であったが、一旦作戦開始が決まると、沖縄戦最大規模のアメリカ軍飛行場への夜間攻撃となる本作戦に大きな期待を寄せている[26]

5月19日に第六航空軍司令部で奥山と諏訪部も交えて、義号作戦に関する会議が開かれ作戦計画が決定した[27]

一、方針

隊ハX日Y時ヲ期シ我爆撃隊主力ノ制壓爆撃ニ膚接シ主力ヲ以テ北飛行場一部ヲ以テ中飛行場ニ強行着陸シ一挙ニ敵飛行基地ヲ爆滅ス 爾後遊撃戦闘ニ移行シ敵飛行基地及後方ヲ撹乱シ全搬ノ作戦ヲ有利ナラシム

二、攻撃實施

其一、第一期攻撃(飛行場竝周辺地区攻撃)

(一)戦闘指導要領

  1. 、X日Y時ヲ期シ主力八機ヲ以テ中飛行場ニ強行着陸シ重点ヲ在地敵飛行機竝ニ軍需品ノ破壊焼却ニ置キ併セテ揚陸場附近ノ物資集積所ヲ攻撃シ一挙ニ敵飛行基地ヲ攻撃滅ス
  2. 、北飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接ノ重点ヲ在地飛行機ノ破壊ニ置キ、併セテ敵司令部及同地周辺地区ノ軍需品集積所ヲ攻撃ス
  3. 、着陸直後有力ナル一部ヲ以テ敵司令部及通信所ヲ急襲シ高級将校及指揮中枢ヲ崩壊セシム
  4. 、爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張シ揚陸地点附近ノ物資集積所ヲ攻撃ス
  5. 、中飛行場攻撃隊ハ強行着陸ニ膚接シ重点ヲ在地飛行ノ破壊ニ置キ併セテ同地周辺地区ノ物資集積所ヲ攻撃シ爾後海岸方向ニ戦果ヲ擴張セシム
  6. 、予定滑走路以外ニ着陸セル場合ニ於テモ速ニ担任地区ニ至リ任務完遂ニ努メシム
  7. 、目的達成セバ(我爆撃隊ノ制壓爆撃下)一斉ニ戦場ヲ離脱シ北飛行場東北方△二二〇・三東側谷地ニ集結シ第二期攻撃(遊撃戦闘)ヲ準備ス 離脱時期ハ(X+一日Y+六時ト予定シ)青吊ヲ(併用ス)

以上の通り、義烈空挺隊の任務はアメリカ軍飛行場の撃滅と、海岸での揚陸物資の破壊とされていた。義烈空挺隊員はサイパンのB-29破壊任務訓練で、敵大・中型機には胴体に帯状爆薬を装着させ破断するか、柄付き爆薬を主翼下面に吸着させて桁を破壊する技術、硫黄島での戦闘機破壊任務訓練では、小型機に対する手榴弾・爆雷を機体に投げ入れて爆破する技術を習得しており、沖縄の飛行場に配備されている大型機、小型機いずれにも対応できる爆破技術を身に着けていた。また飛行場施設、軍需資材は爆破または焼夷攻撃を行うこととしていた。輸送任務にあたる第三独立飛行隊の搭乗員32名も、サイパン攻撃計画時は主任務である部隊輸送に加え着陸後のB-29奪取任務が付加されていたが、沖縄では着陸後には編隊長の諏訪部以下全員が奥山の指揮下に入り空挺隊員と共に地上戦闘する事となった[2]。奥山は第三独立飛行隊まで道連れにすることはないと考えており、編隊長の諏訪部に「何とか友軍の占領地まで脱出してみろ」と何回も進めたが、諏訪部は「未練の残ることは止めましょう」と義烈空挺隊と一緒に戦うことを選んでいる[28]

義烈空挺隊の出撃を撮影するため日本映画社の時事制作局の局員も健軍入りしたが、局員らは真黒く日焼けし眼光だけが異常に鋭い義烈空挺隊員の風貌に驚き、全員が柔道剣道有段者の猛者ばかりと聞かされてさらに驚いた。そして出撃前の総仕上げの演習を撮影したが、暗夜の滑走路を合図の呼子だけで自由自在に進退し、部隊の集合離散も速やかで、忍者のように忍び込んだり、急に現れたりする状況を見て、今まで日本陸海軍のあらゆる部隊を幾度となく取材してきた局員らも、こんな荒っぽいが厳しい訓練を初めて目にして、義烈空挺隊の精強さに衝撃を受けている。これは、義烈空挺隊を空輸する諏訪部忠一大尉率いる第三独立飛行隊についても同様で、諏訪部自ら操縦する九七式重爆撃機に搭乗したカメラマンは、アメリカ軍のレーダーを避けるため、羅針儀ひとつを頼りに暗夜に海上5mという超低空飛行を苦も無く行う操縦技術に驚かされている。第三独立飛行隊の所属機はあまりに超低空を飛行するので、波によりプロペラが吹きちぎられたり、機体のなかに鳥の死骸が飛び込んでくることもざらだった[29]

出撃

義烈空挺隊員。軍刀を持っている中央の隊員は一〇〇式機関短銃、その左隣の隊員は擲弾筒を背負っている。また後者の膝前には爆雷の竹柄も見える
出撃前に互いに軍装を整える義烈空挺隊員
出撃前に淡緑色の染料で軍服に迷彩を施す義烈空挺隊員、上衣の右袖には規定外の物入れが縫い付けられている
出撃直前に握手を交わす義烈空挺隊の奥山大尉(左)と諏訪部大尉(右)。

当初は第32軍が南部撤退を開始する予定の5月22日夜に出撃する計画であったが天候不順により翌23日に延期された。23日には第6航空軍司令官菅原が健軍基地を訪れ、全隊員が整列して出撃の申告と菅原による閲兵を受けた。奥山と諏訪部は菅原から短刀を受領したが、結局この日も天候が崩れて出撃は再延期となった[30]。この夜も奥山と諏訪部ら義烈空挺隊幹部と第6航空軍参謀らで入念な作戦の打ち合わせが行われたが、他の隊員たちは、親しい報道班員と将棋をさしたり[29]、遺品や所持品を実家などに送り返す準備をするなど思い思いの時間を過ごしていた。その様子を見ていた報道班員は隊員たちが朗やかなのを見て、決死出撃の直前だというのになぜこんなに朗やかでいられるのか不思議に思ったという。隊員たちは遺品を整理した後は、手元のお金も一銭も残さず全額国防献金に拠出している[31]。そして、作戦協議が終わった奥山も三重県に遺す母親に遺書を書き、諏訪部は短刀で小さな観音像を彫って、「部下多数ありよろしくお願いします」という一筆を添え横須賀の長兄に送っている[32]

ようやく天候が回復した5月24日に出撃が決定し、上空を戦闘機が援護する中で出陣式が行われた[33]。夕陽が金峰山 (熊本県)に傾きかける頃合に、隊員たちは夕陽に向かって別れの盃(別杯)をかわした[34]。隊員は将校も含めて兵用の服を着用しており、互いの軍服に墨汁や草汁などの染料迷彩を施した[35]。隊員らが濃い色の染料で互いの軍服に迷彩を施している様子が1945年6月9日第252号の日本ニュースに遺されており、映像の色合いから迷彩塗装色は黒色とされていたが、出撃3日後の5月27日付朝日新聞の記事の「軍衣に淡緑色の迷彩を施し」との記述で迷彩は淡緑色と判明し、陸上自衛隊習志野駐屯地空挺館の義烈空挺隊員の軍装の展示でも迷彩は緑色となっている[36][37]。空挺隊員は日本軍では数少なかった一〇〇式機関短銃八九式重擲弾筒を含む各種小火器で武装し、各隊員、手榴弾10~15発を詰めた弾帯や雑のう、破甲爆雷、二瓩柄付き爆薬などの破壊機材も所持といった重武装であった[35]。輸送機1機当たりには、飛行隊隊員2~3名、空挺隊員11~12名が搭乗し、強行着陸後、空挺隊員は3人が1班となって行動するよう訓練されており、隊長の奥山は常々「3人3世戦友ぞ」と隊員たちに言って聞かせていたという[30]

隊員たちには戦闘糧食として、海苔巻き10個、 いなり寿司2個、力餅生卵2個、梅干大根漬、固形塩、羊羹キャラメル精力剤などが支給されたが[38]、「自分たちは食べている余裕もないから」として、今まで世話になった整備兵たちあげてしまう隊員も多かった[31]

出撃に先立って奥山が行った最後の訓示が日本ニュース1945年6月9日第252号に遺されている[36]

「出撃に当たり、隊長として最後の訓辞を与える。待望の出撃の日は遂に到来をした。平生、訓練の成果を発揮をして、敵アメリカの心胆を震駭し、全軍決勝の先駆けとなるはまさに今日である」

その後、隊員たちは着用している軍服と同様に迷彩塗装された九七式重爆撃機に笑顔で次々と乗り込んでいった。隊長の奥山は取材する報道班員からのリクエストで、1番機に搭乗する直前に飛行隊長の諏訪部と握手をしたが、その際に「ウワーこれは映画の名優なみですね」を大笑いしながら言ったため、周囲の隊員たちもつられて大笑いしたという[35]

義烈空挺隊の出撃の報告を受けた第32軍司令官牛島満中将は、撤退準備に忙殺されながらも義烈空挺隊に向けて感謝電報を発している[39]

「壮烈雄渾なる義号、並びに菊水7号作戦の実施を感謝し、衷心より必成を祈念する。軍が目下為し得る限りの努力をなし、これに策応を期しつつあり」

注釈

  1. ^ 作戦時には九七式重爆撃機を使用した。
  2. ^ 20㎜機銃で武装した96式小型トラックをグライダーで沖縄のアメリカ軍飛行場に降下させて、飛行場のアメリカ軍機を攻撃するという作戦

出典

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