義烈空挺隊 突入後

義烈空挺隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 21:48 UTC 版)

突入後

滑走路上に横たわる義烈空挺隊員の遺体。

戦闘後に行われたアメリカ軍の調査によると、確認された日本兵の死者は北(読谷)飛行場で13名(胴体着陸に成功した機体内で発見された3名を含む)。飛行場周辺で撃墜された他の4機には、各機とも14名ずつが乗り組んでいたと考えられ、全員が炎上した機体内やその周辺で死亡しており、その総数は69名であった。義烈空挺隊員の遺体はアメリカ海軍設営隊が埋葬している[70]

義烈空挺隊員の遺体からは、アメリカ軍パイロットが就寝しているテントの位置までが記された詳細な地図が発見され、驚いたアメリカ軍は翌朝、スパイ対策の強化を命じている。特に、飛行場周辺に滞在していた避難民の関与が疑われたため、避難民が飛行場から遠ざけられた[73]。また、新たな日本軍による空挺作戦を警戒して、各飛行場には新たなアメリカ軍の戦闘部隊が配置されることとなった[47]

義烈空挺隊の突入は苦闘する第32軍が陣取る首里山上からも視認することができ、高級参謀の八原博通大佐も嘉手納、読谷飛行場方面で火の手が揚がるのを目撃している。八原は参謀らしく「軍の防御戦闘には、痛くもかゆくもない事件である。むしろ奥山大尉以下百二十名の勇士は、北、中飛行場でなく、小禄飛行場に降下して、直接軍の戦闘に参加してもらった方が、数倍嬉しかったのである」と冷静に感想を述べているが、第32軍司令部将兵は、義烈空挺隊や連日飛来する特攻機から「地上部隊よ頑張れ。今夜もまた我々特攻部隊がやってきたぞ」語りかけられているように感じて、死闘の中で戦うのは我々のみではないとの感情を深く心に抱くことができたという[74]

奥山には出撃前に少佐昇進の内示があったが、少佐の階級章を一度も付けることはなく、両肩に付いていた大尉の階級章を外すと、出撃を見送った挺進第1連隊長・中山勇大佐に託して出撃している[75]。奥山は昭和20年6月10日付で少佐に進級し、戦死認定(昭和20年6月15日)の後にさらに二階級特進し、最終階級は大佐となっている[76]

以上のように飛行場の機能に一定の打撃を与えることに日本軍は成功し、特に海兵隊の戦闘機隊は大きな損害を被ったこともあり、すぐには特攻機の迎撃任務に復帰することができなかった[51]。しかし、沖縄は義烈空挺隊が突入した翌5月25日からまた天候が崩れて、第六航空軍だけでも120機の特攻機を出撃準備させていたが、出撃できたのはその中の70機だけで、沖縄まで到達できたのは24機に過ぎず、日本軍は多大な日時と労力と人的犠牲を費やしながら、義号作戦の成果を十分に活かすことはできなかった[77]。また、陸軍は残存の戦力で総力を結集させた作戦となったが[33]、海軍はこれまで沖縄の飛行場を攻撃してきた夜間戦闘機隊「芙蓉部隊」が、慰労会や酒宴を開催しており攻撃に参加していないなど[78]、初めから陸海軍連携の足並みは揃ってなかった。第6航空軍司令官の菅原は作戦について、日記で「後続を為さず、又我方も徳之島の利用等に歩を進めず、洵(まこと)に惜しきことなり、尻切れトンボなり。引続く特攻隊の投入、天候関係など、何れも意に委せず、之また遺憾なり」と評していた[79]。それでも数少ない特攻機はLSM-1級中型揚陸艦LSM-135を撃沈、 バトラー (掃海駆逐艦)英語版ローパー (輸送駆逐艦)英語版バリー(輸送駆逐艦)スペクタクル (掃海艦)英語版 の4隻に再起不能のダメージを与え(バリーは後日に別の特攻機の命中で沈没、他3艦は廃艦)他7隻を損傷させ、アメリカ軍兵士171名を死傷させる戦果を挙げている[80]

アメリカ軍はこの予想外のコマンド攻撃に衝撃を受けており[81]、沖縄戦における主要なアメリカ軍の公式戦史、公式報告書、アメリカ軍機関紙星条旗新聞従軍記者の報告、司令官レベルの将官の伝記などに詳細に記述されている[18][55][82][83][84][85]、その詳細な戦闘記録の中で、義烈空挺隊員が高い訓練度を誇って、応戦班と破壊班がしっかり役割分担しており、それを実戦においても冷静に実践していること、応戦班は数名の少数にもかかわらず伏射で正確な射撃を行い、圧倒的多数のアメリカ海兵隊員に対して損害を与えて、破壊活動の支援の役割をしっかりこなしていること、破壊班も、破壊対象の機体の大小をしっかり見極めて、訓練通りに爆薬や手榴弾を投擲したり設置したり状況に応じて使い分けて、少人数で最大限の破壊を実現できていることが確認できる[86]。義烈空挺隊員の高い訓練度はアメリカ海兵隊の公式報告書でも言及されており、「訓練を受けた8人~10人の兵士がもたらせた被害から判断すると、あと1機~2機が突入に成功していたら驚異的な損害を生じていた」と評価された[87]

ほかも。アメリカ軍側の義烈空挺隊に対する評価は高く、米国戦略爆撃調査団報告書においては「連合軍飛行場への自殺(特攻)攻撃」と紹介され「この1機からの空挺隊員は、飛行場に奇襲をかけ、そうとうな成果をあげた」と作戦成功と評され[88]第5艦隊司令官として沖縄作戦を指揮したレイモンド・スプルーアンスも義烈空挺隊の報告を受けると、戦闘長期化を覚悟し速やかな勝利を断念している[89]。第二次世界大戦関連で多くの著作があるイギリスの著名な歴史作家マーク・フェルトン英語版は義烈空挺隊指揮官奥山を「信じられないほど勇敢で才能のある兵士であった」と評価している[90]

義烈空挺隊が一定の成果を上げたと考えた日本軍は、義号作戦と同様な特殊部隊でのより大規模な空挺特攻作戦となる、日本海軍によるサイパン島飛行場への剣号作戦や、日本陸軍による沖縄飛行場への烈作戦[注 2][91] を計画し準備を続けていた。これらの作戦には、義号作戦後に挺進第1連隊に統合された義烈空挺隊の生還者の一部も参加する予定であった。しかし義烈空挺隊から被った損害で日本軍による空挺特攻作戦を警戒していたアメリカ軍は、日本軍の空挺特攻作戦の準備が進んでいるという情報を掴むと、剣号作戦での海軍航空隊作戦機の出撃基地であった三沢基地を、8月9日と10日に艦載機で猛爆撃した。海軍呉鎮守府第101特別陸戦隊と陸軍挺進第1連隊の混成部隊をサイパン島に空輸する予定であった一式陸上攻撃機25機は、巧妙にカムフラージュされていたにもかかわらず、アメリカ軍艦載機は航空機のみを狙い撃つ緻密な爆撃で18機を完全撃破、7機を損傷させて壊滅状態にした[92]。激しい爆撃だったが、航空機の大損害に対して飛行場施設と人員に損害はなかった[93]。輸送部隊の壊滅により作戦は延期を余儀なくされ、終戦まで決行することはできなかった[94][95][96]

戦後間もない頃、義烈空挺隊員の生還者のうち数名が、自分たちに出撃を命じながら自決もせずに生き長らえている菅原に抗議するため菅原宅を訪れたことがあった。菅原は特攻隊員慰霊に私財を投じていたことから貧相な生活をし、住居も死んでいった義烈空挺隊員を含む特攻隊員に申し訳ないとして、外から見たら物置にしか見えないバラック小屋であり、あまりの菅原宅のみすぼらしさと応対した菅原と妻女の誠実な態度に接して、隊員らが何も言うことなく帰ったということがあった[97]。菅原の義烈空挺隊員に対する想いを作家の山岡荘八から尋ねられたことがあったが、「まことに立派な若者たちで惜しい!などという言葉では云いきれません。」と声を呑むようにして答え合掌している[98]

義烈空挺隊が出撃した健軍の地にある陸上自衛隊健軍駐屯地では、毎年の5月24日を基準日として、義烈空挺隊の慰霊祭が開催されている[99]

義烈空挺隊の突入を報じる北日本新聞紙面
沖縄県糸満市字摩文仁に建立された義烈空挺隊の碑、「義烈」の文字は指揮官奥山大尉の絶筆の拡大

注釈

  1. ^ 作戦時には九七式重爆撃機を使用した。
  2. ^ 20㎜機銃で武装した96式小型トラックをグライダーで沖縄のアメリカ軍飛行場に降下させて、飛行場のアメリカ軍機を攻撃するという作戦

出典

  1. ^ マーシャル 2001, p. 122-125
  2. ^ a b c 山岡荘八 2015, p. 556
  3. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.2
  4. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.3
  5. ^ a b 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.4
  6. ^ 証言・私の昭和史⑤ 1969, p. 28
  7. ^ 田中賢一 1976, p. 79
  8. ^ 加藤正夫 2014, p. 176
  9. ^ a b c 加藤正夫 2014, p. 177
  10. ^ a b 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成16年11月 第61号 P.20
  11. ^ 田中賢一 1976, p. 82-83
  12. ^ a b 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.5
  13. ^ 証言・私の昭和史⑤ 1969, p. 22
  14. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.6
  15. ^ a b 証言・私の昭和史⑤ 1969, pp. 25–26
  16. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年5月 第31号 P.9
  17. ^ 加藤正夫 2014, p. 181
  18. ^ a b United States Army in World War II The War in the Pacific Okinawa: The Last Battle (1947) , p. 362.
  19. ^ THE FINAL CAMPAIGN:Marines in the Victory on Okinawa(1996) , p. 24.
  20. ^ 山岡荘八 2015, p. 558
  21. ^ a b 戦史叢書36 1970, p. 568
  22. ^ 戦史叢書17 1968, p. 680
  23. ^ a b 宇垣纏 1953, p. 243
  24. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成13年5月 第47号 P.18
  25. ^ 深堀道義 2001, p. 203.
  26. ^ 宇垣纏 1953, p. 241
  27. ^ 田中賢一 1976, p. 229
  28. ^ 田中賢一 1976, p. 223
  29. ^ a b 別冊1億人の昭和史④ 1979, p. 35
  30. ^ a b 別冊1億人の昭和史④ 1979, p. 20
  31. ^ a b 証言・私の昭和史⑤ 1969, p. 26
  32. ^ 別冊1億人の昭和史④ 1979, p. 19
  33. ^ a b 生田惇 1977, p. 204
  34. ^ 別冊1億人の昭和史④ 1979, p. 21
  35. ^ a b c d 図説特攻 2003, p. 116
  36. ^ a b NHK 戦争証言アーカイブス 日本ニュース第252号 公開日1945年6月9日
  37. ^ 櫻井翔×池上彰 教科書で学べないSP 「戦後70年特別番組 教科書で学べない戦争」2015年8月4日放送
  38. ^ 別冊1億人の昭和史④ 1979, p. 26
  39. ^ 山岡荘八 2015, p. 557
  40. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成7年5月 第23号 P.19
  41. ^ 田中賢一 1976, p. 238
  42. ^ a b c 戦史叢書36 1970, p. 572
  43. ^ リエリー 2021, p. 280
  44. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成5年8月 第17号 P.20
  45. ^ a b 山岡荘八 2015, p. 561
  46. ^ 戦史叢書36 1970, p. 571
  47. ^ a b c 米国陸軍省 1997, p. 398
  48. ^ フランク 1971, p. 116
  49. ^ a b c 戦史叢書36 1970, p. 578
  50. ^ a b c Sherrod 1952, p. 405
  51. ^ a b c d e リエリー 2021, p. 281.
  52. ^ The Giretsu Attack”. Naval History Magazine (2010年6月1日). 2023年3月4日閲覧。
  53. ^ a b トール 2022b, p. 331
  54. ^ 米国陸軍省 1997, p. 398.
  55. ^ a b c d ボールドウィン 1967, p. 433
  56. ^ 加藤正夫 2014, p. 185
  57. ^ 押尾一彦 2005, pp. 208–210.
  58. ^ a b オネール 1988, p. 284.
  59. ^ The Giretsu Attack”. Naval History Magazine (2010年6月1日). 2023年3月4日閲覧。
  60. ^ Astor 1995, p. 320.
  61. ^ The Giretsu Attack”. Naval History Magazine (2010年6月1日). 2023年3月4日閲覧。
  62. ^ Japanese Special Operations Suicide Attack on Yontan Airfield Okinawa”. The SOFREP Media Group (2017年5月24日). 2023年3月5日閲覧。
  63. ^ Doll 2000, p. 35
  64. ^ Japanese Special Operations Suicide Attack on Yontan Airfield Okinawa
  65. ^ リエリー 2021, p. 281
  66. ^ Japanese Special Operations Suicide Attack on Yontan Airfield Okinawa”. The SOFREP Media Group (2017年5月24日). 2023年3月5日閲覧。
  67. ^ a b 防衛研究所所蔵 整理番号:B03-4-30 陸空 中央航空作戦指導25 『義烈空挺隊 攻撃計画(昭和20.5)』
  68. ^ "Sixth Air Army Action Report" IJN Confidential Telegram No.121340 ,12 June 1945
  69. ^ 海軍機密第一二一三四〇番電
  70. ^ a b 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成5年8月 第17号 P.21
  71. ^ 米国陸軍省 1997, p. 399
  72. ^ 田中賢一 1976, p. 233
  73. ^ a b 琉球朝日放送『語り継ぐ沖縄戦2011 (3) 義烈空挺隊 ある県出身隊員の思い』2011年6月22日
  74. ^ 八原博通 2015, p. 318
  75. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成7年5月 第23号 P.21
  76. ^ 秦 2005, p. 42, 第1部 主要陸海軍人の履歴:陸軍:奥山道郎
  77. ^ 戦史叢書17 1968, p. 575
  78. ^ 石川真理子 2016, p. 237
  79. ^ 大貫健一郎・渡辺考『特攻隊振武寮』講談社、2009年、p.201
  80. ^ Rielly 2010, pp. 323–324
  81. ^ ファイファー 1995, p. 195
  82. ^ THE FINAL CAMPAIGN:Marines in the Victory on Okinawa(1996) , p. 23.
  83. ^ Stars and Stripes pacific edition may 26 1945
  84. ^ ブュエル 2000, p. 545
  85. ^ Robert Sherrod 1952
  86. ^ The Giretsu Attack”. Naval History Magazine (2010年6月1日). 2023年3月4日閲覧。
  87. ^ Okinawa: Victory in the Pacific Historical Branch, G-3 Division, Headquarters, U.S. Marine Corps 1955, p. 200.
  88. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 197
  89. ^ ブュエル 2000, p. 546
  90. ^ SUICIDE COMMANDOS SEPTEMBER 28, 2015
  91. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成17年8月 第64号 P.36
  92. ^ オネール 1988, p. 285
  93. ^ 公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会『機関紙 特攻』平成9年11月 第33号 P.9
  94. ^ 米国戦略爆撃調査団 1996, p. 158
  95. ^ 八戸市における戦災の状況(青森県)
  96. ^ 戦争遺産を訪ねて (3)三沢基地・さびた引き込み線跡”. デーリー東北新聞社 (2009年10月27日). 2018年4月13日閲覧。
  97. ^ 深堀道義 2001, p. 340.
  98. ^ 山岡荘八 2015, p. 560
  99. ^ 陸上自衛隊 健軍駐屯地 (2021年5月15日). “ツイート”. Twitter. 2022年1月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年1月15日閲覧。
  100. ^ 田中賢一 1976, p. 305
  101. ^ 【特攻のための特攻 義烈空挺隊の遺言】(下)飛行場へ強行着陸 3度目命令「淡々と」出撃”. 産経ニュース (2020年8月16日). 2022年1月14日閲覧。
  102. ^ 北影雄幸 2005, p. 352
  103. ^ 北影雄幸 2005, p. 355
  104. ^ 北影雄幸 2011, p. 250





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「義烈空挺隊」の関連用語

義烈空挺隊のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



義烈空挺隊のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの義烈空挺隊 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS