義烈空挺隊 突入

義烈空挺隊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/01 21:48 UTC 版)

突入

読谷飛行場への強行着陸

義烈空挺隊強行着陸時の読谷飛行場
沖縄に強行着陸した後の九七式重爆。アメリカ軍が撮影した写真。

18:50、第三独立飛行隊所属の12機の九七式重爆撃機が健軍飛行を出撃した。重爆撃機隊は三角から沖縄西方海上に直進後、21:10に残波岬の沖合で約90°の直角に変針し、22:00に沖縄本島に達する計画であった[40]。第60戦隊の杉森秀男大尉が搭乗する四式重爆撃機が第三独立飛行隊を沖縄まで誘導し、義烈空挺隊の突入寸前に照明弾を投下する手筈となっており、杉森機は手筈通りに照明弾2発を投下し「照明弾2発投下」と無線報告をしたが未帰還となった[41]

12機の九七式重爆撃機のなかで、まずは1機が一緒に出撃することができず、主力より遅れて出撃し単機で沖縄を目指したが、沖縄にたどり着くことができず引き返している。残った11機で沖縄に向かって飛行を続けたが、故障や航法の不備で脱落する機体が相次ぎ、さらに3機が引き返すこととなった。その3機はそれぞれ大牟田の海岸、三角付近、隈庄町に不時着している[42]。作戦では嘉手納飛行場に8機、読谷飛行場に4機が向かう予定であったが[43]、4機が引き返した他に別の1機も本隊から逸れており、結局は嘉手納飛行場に2機、読谷飛行場に5機が向かうこととなった[42]

行動秘匿のために義烈空挺隊からの通信は、沖縄西方海上での変針時、沖縄本島到着、只今突入の3回とあらかじめ決めていたが、21:10の変針、22:00の沖縄本島への到着予定時刻にはいずれも連絡なく、無線を聞いていた第六航空軍司令部は重苦しい雰囲気に包まれた。その後、22:11になってから奥山隊長機から「オクオクオク オクオクオク ツイタツイタツイタ ツイタツイタツイタ」との入電があり、司令部と隣室に控えていた報道班員や新聞記者らはドッと歓声を上げた。しかしその無電が義烈空挺隊から発された最初で最後の無電となった[44]。 先導した重爆隊により、6機が沖縄の北飛行場に強行着陸、さらに2機が中飛行場に着陸したとの報告がなされた[45]。その後にアメリカ軍から平文で読谷飛行場の騒乱を伝える電文が次々と発信されるのを日本軍が傍受した。「読谷飛行場異変あり」「在空機は着陸するな」「島外飛行場を利用せよ」との電文の他、慌てた管制官が在空機を空母に誘導しようとし機動部隊の位置を暴露する混乱ぶりだった。アメリカ軍の混乱状況から判断して義烈空挺隊は果敢な攻撃を実施したものと判断されて、軍司令官の菅原は大本営に24:00に作戦成功の第一報を入れている[46]。翌5月25日に一〇〇式司令部偵察機が沖縄を偵察したが、読谷飛行場は機能喪失、嘉手納飛行場は使用制限を受けている模様であり、同日もなお義烈空挺隊は飛行場付近で敢闘中と判断された[42]

アメリカ陸軍の沖縄戦公式戦史「United States Army in World War II / The War in the Pacific / Okinawa: The Last Battle」によれば、6度にも及ぶ日本軍機による空襲ののち、24日22:30頃、義烈空挺隊のものと思われる双発爆撃機5機が伊江島の方向から低空で進入してきた[47]。読谷飛行場のアメリカ軍兵士は、日本軍の爆撃機が自らの意思で着陸しようとしていることに驚愕し、猛烈な対空砲火を浴びせた[48]。1、2番機は対空砲火に撃墜されたが、3機目は被弾した後 第16対空砲兵大隊英語版の対空砲陣地に体当たりして、海兵隊8人が巻き添えで戦死した[49][50]

この日管制塔では、第2海兵航空団VMFA(AW)-533英語版夜間戦闘機パイロットメイナード・C・ケリー海兵隊中尉とロバート・N・ダイエルリッチ海兵隊2等軍曹の2人[51]と他7人の海兵隊員が管制業務に就いており、義烈空挺隊突入前の爆撃の間は、日本軍爆撃機に浴びせられる対空砲火を見ながら「あそこにいてあいつらを撃てるなら50ドルやってもいい」などと冗談を言い合っていた。やがて、義烈空挺隊を乗せた九七式重爆撃機が低空飛行で突っ込んでくると「今なら75ドルでもいいくらいだ」とまだ冗談を言う余裕があったが[52]、最後に突入してきた5機目が対空砲火をかい潜って読谷飛行場の滑走路に胴体着陸し、機体はそのまま管制塔から100mの距離にある舗装駐機場まで達すると[53]、ケリーは「一体なにごとだ」と叫んで双眼鏡で確認し、機内から8人~10人の完全武装の空挺隊員が機から飛び出してくるのを視認した。そこでケリーは、38口径のリボルバー拳銃を掴んで管制塔を飛び出して、他の海兵隊員たちの制止を振り切ってジープに乗ると胴体着陸した日本軍機に向かっていった[51]。機体から出てきた空挺隊員の数は、最小では8人[54]から最大で11人[55]まで諸説ある。

読谷飛行場での戦闘

義烈空挺隊突入時の沖縄海兵隊航空隊の指揮官たち、左から2番目が第10戦術空軍司令官フランシス・パトリック・マルケイ少将、3人目がアメリカ海兵隊総司令官アレクサンダー・ヴァンデグリフト大将。

唯一、読谷飛行場の強行着陸に成功したのは、陸軍中野学校二俣分校出身の原田宣章少尉が指揮官[56]の4号機であった。4番機には指揮官の原田のほか、森井徳満、石丸愛二、松実留四郎の各曹長、松永鼎、田村松之助、諏訪芳夫、相田清、堀添綴、斎藤愛一の各伍長の10人の義烈空挺隊員と、巧みな操縦で機体を見事に強行着陸させた、第三独立飛行隊の町田一郎中尉と岡本秀男曹長の操縦員に、航法員の瀬立武夫少尉、無線員の石川高明伍長の合計14人が搭乗していたが[57]、操縦していた町田か岡本のいずれか1人が着陸時に戦死したほか、機体から飛び出してきた日本兵は最大で11人であったため[55]、他2人も何らかの理由で機体の中に取り残されたことになる[58]

機体から飛び出した義烈空挺隊員は一団となって、身を屈めながらゆっくりとした歩調で、駐機してある航空機の方に滑走路を横切って進んでいったが[59]、一部始終を見ていたVMFA-542英語版の夜間戦闘機パイロットクラーク・C・キャンベル中尉に率いられた滑走路上の海兵隊員が、M1ガーランドトミーガンを手に取って反撃を開始した[60]。そこで、一団となっていた義烈空挺隊員は散開し、一部の隊員が地面にうつ伏せて、伏射で短機関銃と小銃で海兵隊員に向け応射を行い、他の隊員は匍匐前進で航空機と管制塔に近づいていった[61]。そこに、ケリーの乗ったジープも到着したため、義烈空挺隊員は射撃を浴びせ、しばらくの間銃撃戦となったが、航空機に向かっていた他の義烈空挺隊員が、手榴弾や爆薬を投擲して次々とアメリカ軍航空機を破壊しているのを見ると、ケリーは管制塔に戻り飛行隊司令部に警報を入れることにした[51]。管制塔近くにも既に義烈空挺隊員が進出していたが、ケリーはこの隊員を拳銃で射殺すると、管制塔を駆け上がって飛行隊司令部に警報電話をし、さらに戦闘し易くなるよう探照灯を点灯しようとしたとき、隊員からの射撃によって戦死した。ケリーはこの功績で海軍十字章を受章している[51]

義烈空挺隊員はまったく無駄な動きをすることもなく、駐機している航空機の間を駆け抜け、訓練通り大型機には爆雷を設置し、小型機には手榴弾を投擲して次々と機体を撃破していった[62]。一方でアメリカ軍は、突入当時に読谷飛行場には殆ど地上部隊がおらず、義烈空挺隊に対して戦闘には不慣れな戦闘機パイロットや整備兵や対空砲部隊の海兵隊員が応戦することとなった。そのため、上記のように一部は冷静な対応をした海兵隊員もいたが、他の多くの海兵隊員は侵入してきた日本兵がわずか10人足らずとは判らず、多数の日本兵が攻撃してきたと思い込んでパニックに陥り、四方八方に向けて対空砲を含むあらゆる火器を発砲した[58]。混乱した戦闘において、第2海兵航空団の海兵隊パイロットが被った損害は大きく、義烈空挺隊員との戦闘でケリーが戦死した他に1人が義烈空挺隊員の射撃によって戦死し、投擲された手榴弾で4人が負傷し、うち2人は片足を吹き飛ばされる重傷となった[49][50]。飛行場における戦闘での負傷者は合計18人にもなり、他にも第1臨時対空砲兵グループにも9人の負傷者が出ている[50]。この激戦を間近でみていた基地の海兵隊航空将校ロナルド・D・サーモン大佐は「実に恐ろしい・・・わたしがあらゆる戦争で見た中で屈指の興奮した夜であった」と恐怖心を抱き[53]、この戦闘を見ていたアメリカ軍従軍記者が、読谷飛行場の状況を「地獄さながらの混乱」と形容したほどの混乱ぶりであった[55]

そんな混乱した状況で、海兵隊の夜間戦闘機隊 VMFA(AW)-533英語版F6F戦闘機が夜間哨戒任務から帰還してきたが、指揮官のマリオン・マグルーダー英語版中佐は激戦中にも構わず、味方のフレンドリーファイアを避けながら戦闘機隊を飛行場に無事に着陸させ、F6Fから飛び降りたパイロットは塹壕に入って戦闘支援に加わっている[63]

攻撃成功

義烈空挺隊に撃破されたチャールズ・J・ムーア少将の乗機

アメリカ軍海兵隊の記録では、義烈空挺隊の破壊工作により、アメリカ軍機9機が破壊炎上(F4U戦闘機3機、C-47輸送機4機、PB4Y-2爆撃機2機)、29機が損傷(PB4Y-2爆撃機2機、F6F戦闘機3機、F4U戦闘機22機、C-47輸送機2機)[64]、破壊されたC-47の1機はチェスター・ニミッツ海軍元帥の使いとして沖縄に来ていたアメリカ統合参謀本部次官チャールズ・J・ムーア英語版少将の乗機であった[49]。また、損傷機のなかでも破壊の程度が酷い機もあって少なくとも戦闘機3機は修理不能と判定されている[65]。 燃料集積所も破壊されて、ドラム缶600本の70,000ガロンのガソリンが焼き払われ、対空砲隊の損害を合わせると最低でも10人が戦死し、27人以上が負傷するという人的損失を被った。わずか8~10人程度の隊員によってもたらされた破壊は甚大であり、まさに阿修羅の如き奮戦・敢闘であったことは間違いない[35]

読谷飛行場はこのダメージにより翌朝10時まで使用不可となった。戦果視察の重爆撃機は、読谷飛行場が大混乱に陥り、次から次にアメリカ軍航空機が炎上していたと報告している[45]。読谷飛行場は近隣の地上部隊に救援を求め続けたが、なかなか増援は到着しなかっため、戦闘は夜明けまで続くことになった[66]。いくら戦闘に不慣れな戦闘機パイロットらが相手であっても、圧倒的多数の敵を前に義烈空挺隊員も次々と倒され、翌25日13:00頃に、最後の1名が残波岬近隣にあった第31海兵航空群英語版司令部まで達したところで射殺されて、義烈空挺隊は全滅した[47]。義烈空挺隊員が飛行場から離れた海岸線まで達していた理由については、「義烈空挺隊攻撃計画」の通り、アメリカ軍飛行場攻撃のあとは海岸まで達して揚陸物資を攻撃する計画であったからである[67]。また、残敵掃討していた第8対空砲兵大隊英語版の2人の海兵隊員が、飛行場近くの林の中で横たわっていた義烈空挺隊の将校を見つけて、捕虜にすることなく頭を撃ち抜いて殺害したため、後日軍法会議にかけられている[68]。6月12日に陸軍第6航空軍が発信した戦闘概報によると「義号作戦ニ参加シ北中飛行場ニ強行着陸ス任務終了後敵中突破「具志頭(島尻郡八重瀬町)」附近ニ到達セル一名」と1人の義烈空挺隊員が生き残り、第32軍の前線まで達して戦果を報告したとされるが、その真偽と隊員の氏名は判明していない。[69]

嘉手納に向かった2機がどうなったのかはアメリカ軍の記録には記述はないが、戦果視察の重爆撃機は、着陸成功を報じる赤い信号灯が嘉手納飛行場で2つ点灯されたのを確認し帰還後に作戦成功を報告している[70]。 海軍第五航空艦隊司令部も、嘉手納飛行場は使用できないので沖合の空母に着艦せよというアメリカ軍の無線を傍受している[23]。また、アメリカ軍海兵隊員としてペリリューの戦いなどの従軍歴がある作家ロバート・レッキーの著作「Strong Men Armed: The United States Marines Against Japan」(邦訳版は「日本軍強し―アメリカ海兵隊奮戦記」)によれば、「嘉手納飛行場も読谷飛行場と劣らぬ損害を受けて、50人の日本兵が27日まで飛行場を占領していた」とのことであるが[15]、該当するアメリカ軍の公式記録は見当たらない。日本陸海軍の爆撃機は同時に伊江島飛行場も爆撃し、ここでも60名のアメリカ兵が死傷するなど大きな損害を与えている[71]

さらにこれは「第一期攻撃」であり、第一期攻撃が成功したのちは、生存した義烈空挺隊員はそのまま沖縄にてゲリラ戦を展開していく計画で、これを「第二期攻撃」としていた[67]

其ノ二 第二期攻撃(遊撃戦)

(一)戦闘指導要領

  1. 、△二二〇・三―一六〇・〇東側谷地ニ遊撃據点ヲ占領シ有機的攻撃ニ依リ重点ヲ(北、中飛行場)ニ置ク敵飛行場後方撹乱ニ置キ敵ノシンタンヲ寒カラシメ(補給ヲ困難ナラシム)
  2. 、據点占領地域ハ別紙第下ノ如シ
  3. 、攻撃要領 イ、△二二〇・三―一六〇・〇ノ線及越来村北側地区ニ推進據点ヲ推進シ北中飛行場及物資集積所ニ對シ攻撃ス  ロ、攻撃地区ノ配當ハ概ネ第一期戦闘ニ準ズルモ細部ハ現指示ニ依ル
  4. 、攻撃時期ハ部隊ノ集結状況ニ應ジ決定スルモ概ネX+三日以降トシ時刻ハ夜間トス
  5. 、攻撃目標ハ在地飛行機輸送機関物資集積所トス
  6. 、企 秘匿ニ関シテハ特ニ據点竝ニ連結位置ノ秘匿ニ重点ヲ置ク
  7. 、連絡 各隊間ハ勉メテ相互連絡ニ依リ確保スルト共ニ左記要領ニ依ル イ、連絡場  1、久保南方二百米断崖部東端  2、比謝川最上流源点 ロ、時刻 1、日没一時間後ヨリ一時間 2、日出二時間前ヨリ一時間 ハ、要領 各據点毎連絡者ヲ派遣シ命令報告通報傳達ス
  8. 、給養補給 各據点毎ニ現地物資資材ノ獲得ニ依リ極力蓄積シ持久性ヲ保持セシム
  9. 、速ニ該方面ニ行動シアルト予想セラル球部隊トノ連絡ニ努ム

義烈空挺隊は北飛行場東北にある220.3高地をゲリラ戦(遊撃戦)の拠点にしようとしていた。同高地は付近に深い谷があり潜伏するにはうってつけの地形で、生存した空挺隊員はそこを拠点とし、毎晩北飛行場や物資集積所を襲撃し命ある限り戦う計画であった[72]

陸軍中野学校の諜報員は、サイパン島攻撃のときとは異なり残置諜報員としての潜入任務は命じられておらず、純粋な戦闘員として作戦に参加していたが[10]、付近の山中には、すでに他の陸軍中野学校諜報員に率いられた第二護郷隊がゲリラ戦を展開しており、義烈空挺隊の諜報員も護郷隊と連携しゲリラ戦を展開する計画であったという指摘もある。 名護市史編さん係で陸軍中野学校と沖縄戦の関連を研究している川満彰は「彼らは生き残る計画だったと思うんですよ。一般の僕たちから見ていたら無謀な計画ではあるんだけれど(中略)彼らは生き残るつもりだった。遊撃戦を展開して、大本営、関東地区の爆撃をどうにかここで少しずつでもいいから食い止めるというそういったことが計画されていたんでしょうね」と、義烈空挺隊が単なる決死の特別攻撃隊ではなく、なるべく生存をはかり、長くゲリラ戦を展開してアメリカ軍の足止めを行う任務を帯びていたと指摘している[73]


注釈

  1. ^ 作戦時には九七式重爆撃機を使用した。
  2. ^ 20㎜機銃で武装した96式小型トラックをグライダーで沖縄のアメリカ軍飛行場に降下させて、飛行場のアメリカ軍機を攻撃するという作戦

出典

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