福田康夫内閣
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発足時
2007年(平成19年)9月10日に第168回国会が召集され、安倍晋三首相は所信表明演説をしたものの、そのわずか2日後、その演説に対する衆議院本会議での代表質問の開始直前に突然の辞任表明を行い、同時に総裁選で早急に後継総裁を選ぶよう指示した。これを受け、9月23日に自民党総裁選が行われ、党内8派閥の領袖から雪崩現象的に支持された福田康夫が麻生太郎を133票差(福田330票、麻生197票)で破って総裁に選ばれた[1]。
9月25日の国会の本会議で行われた内閣総理大臣指名選挙では9年ぶりに衆議院と参議院で異なった指名が行われ(衆議院で福田康夫338票・小沢一郎117票、参議院の決選投票で小沢一郎133票・福田康夫106票)、両院協議会では成案を得ることができず、憲法の規定する衆議院の優越により福田康夫が内閣総理大臣に指名された。
憲政史上、親(福田赳夫)子(長男、福田康夫)がともに内閣総理大臣になった初めての例である[2]。また、対する野党第1党の民主党代表・小沢一郎が、父福田赳夫の最大の政敵である田中角栄の「懐刀」「秘蔵っ子」であるという点でも注目された。
福田は、基本的に第1次安倍改造内閣の方針を踏襲すること、前内閣で問題視された閣僚の金銭スキャンダルを調べる時間がなかったこと、国会会期中ですぐに国会審議に突入する日程から、即戦力・実力を重視し、17名の閣僚のうち15名を第1次安倍改造内閣からの再任・横滑りとした。新入閣は、渡海紀三朗(文部科学大臣)と石破茂(防衛大臣)の二人だけであり、うち初入閣は渡海だけであった。
このため早速、野党の各党から「安倍お下がり内閣」(日本共産党・市田忠義書記局長)[3]、「古い自民党内閣」「自民党の、自民党による、自民党のための内閣」(社民党・福島瑞穂党首)、「昔の名前で出ています内閣」(民主党・鳩山由紀夫幹事長)などと揶揄する論評が出された[3]。
再任が13人と多く、横滑りが2人、入閣が2人のみであったため居抜き内閣とも表現された。前安倍改造内閣で入閣した閣僚を再任しない場合は在任期間1ヶ月程度の短命閣僚になってしまうが、殆どの閣僚を再任・横滑りすることで1ヶ月前に入閣した閣僚の首相への求心力を高める目的もあった。
国務大臣への人事発令内容では、増田寛也の特命職務の「地方・都市格差是正担当」が「地方再生担当」と名称変更され、岸田文雄の内閣府特命担当大臣としての担当事項から「再チャレンジ担当」が外された。
さらに官邸諮問会議の削減が図られるなど、安倍政権時代の政策を一部継承しない姿勢も早々に打ち出した。
組閣を終えた福田は、最初の記者会見で「一歩でも間違うと自民党は政権を失いかねない。緊張した日々を送らなければならない」と述べ、自らの内閣を「背水の陣内閣」と命名し[4]、「政治不信の解消に全力を挙げる」と宣言した。
鳩山邦夫と渡辺喜美は福田康夫内閣の閣僚だが、父の代でも福田赳夫内閣で鳩山威一郎と渡辺美智雄が閣僚入りしていた。
翌9月26日、正式な内閣の発足にあたり福田首相は初閣議で閣僚たち全員に政治資金への「厳格対応」を求め、内閣の基本方針を示す内閣総理大臣談話[5]を発表した。
この談話で福田首相は、以下の基本方針を示した。
- 野党との誠実な協議・協調
- 政治とカネの問題の根絶
- 年金記録漏れ問題の着実な解決
- 格差問題に対する具体的対応の実践
- 攻めの農政
- 地球温暖化問題
- 外交の基本方針
- 海上自衛隊による給油活動の継続
- アジア外交
- 北朝鮮問題
- 「自立と共生」「希望と安心の国」
国務大臣だけではなく、比較的派閥の要望が通りやすい副大臣・大臣政務官人事も、ほぼ安倍改造内閣からの再任または横滑りという陣容であった。魚住裕一郎が総務副大臣を離任して谷口隆義が就任する以外は、すべて再任となった。
メールマガジンについては、福田康夫政権も小泉純一郎政権・安倍晋三政権に引き続き内閣メールマガジンを発行することを、早々に内閣官房内閣広報室を通じ安倍内閣メールマガジン購読者へメールで知らせており、その情報は全国紙によっていち早く報道された。
内閣発足直後に行われた世論調査では、福田内閣は、毎日新聞の調査で57パーセントの高い支持率を記録し、歴代5位と[注釈 1]、御祝儀相場という側面はあるものの好スタートを切った。
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