登山 登山の概要

登山

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/10 22:34 UTC 版)

モンブランクレバスを行く登山者たち(1862年)
登山するAnastasius Grün(1830年ころの絵画)
フランス、エギーユ・デュ・ミディの尾根をゆく登山者たち(2007年)
日本の白馬大雪渓の上部を登る大勢の登山者たち(2015年
夏に低山を、ガイドされつつ登るウィキマニアたち。まわりは樹木が生い茂っている。(2016年)

概説

登山は山に登ることではある。だが、登山は登山そのものを目的とし、そこに最大の喜びを見出し、自分の人生に活かしてゆくことである[2]。山菜や動物を採集したり、地質調査のため等々のために山に入ってそこを登ることは登山自体を目的としておらず、異なっている[2]

狩猟や信仰のための登山は古くから行われているが、これらは今日的な意味での登山からは除外される[3]。山頂から景色を眺めることがしたくて登山をした、という今日的な意味の登山へとつながる登山をした最初の記録はイタリアのペトラルカ(14世紀の詩人)のものである[3]。→#歴史

山に登ることそのものを目的とする登山とその思想: alpinism, アルピニズム, 近代登山)が18世紀後半のヨーロッパで始まった[1][4][5]。この意味での登山はスポーツの一種とされる[1][4][5]

アルピニズム

: alpinism(アルピニズム) は広義には登山全体を指すが、特に近代登山(近代的なスポーツ登山)とその思想を指す[4]。18世紀後半を始まりとする近代登山は[注 1]、山に登ること自体に喜びを見出し、登山が精神肉体に与えるものを重視し、人生のうるおいとすることを目的とする[5][4]。アルピニズムはまた、登山の知識と技術を総合的に養い、全人格的に山に対していこうとする思想でもある[4]。登るという行為以外に目的がない点で近代登山はスポーツの一種であり、この点において宗教的な登山[注 2]戦争狩猟測量研究などのための登山と異なっている[5][1][4]


日本では戦後に登山者が増加した[8]高年齢の登山者や女性も多くなり、登山は野外スポーツとして定着しているとされるが、遭難の続発は社会問題となっている[8]

登山を広く捉えると、スリーシーズンの(雪が無い時期の)ハイキングトレッキング縦走登山といった比較的平易なものから、雪山登山山スキー沢登り藪漕ぎ岩登り(ロッククライミング)アイスクライミングフリークライミング、他にもトレイルランニングなどと登山の難易度が高く技術や経験が必要なものまで、登山の形態は、方法、技術、難易度、季節、時期などによって多岐にわたる。

歴史

近代登山が始まる以前の段階(近代登山から見れば一種の「前史」に当たるもの)から解説する。

先史時代

山を登るということは先史時代から行われていたようである。イタリアオーストリアの国境にて約5,300年前の男性のミイラであるアイスマンエッツ渓谷(海抜3,210m)で発見された。アイスマンがここまで登った理由は不明であるが、山に登ったことは確かである。他にも、狩猟などでも登山は行われていたが、これらは今日の登山とは除外される。また、多くの宗教で山は崇拝や信仰の対象とされ、神そのものであるとされる場合もあったことから、様々な聖典伝説で登山が記録されている。[要出典]

ヨーロッパ

中世以前

アルプス山脈を越えるハンニバルの軍

前218年ハンニバル第二次ポエニ戦争において、6万人の兵と37頭のゾウとともにピレネーやアルプスの山脈を越えたとされている[5]

125年にローマ帝国のハドリアヌス帝は朝日を見るためにエトナ火山に登った[9]

ルネサンス期から18世紀前半

ヨーロッパ近代の精神が、山に登ることそのものに喜びを見出す近代登山に道を開いた[4][注 3]イタリア詩人ペトラルカがその先駆けとなった[4]1336年、ペトラルカはフランス南部のアビニョン近郊のモンバントゥーに登った[5][1][4]。これが、山頂からの眺望を得るために登山をした最初の記録とされる[1][4]その後ペトラルカは、このときの旅程を友人に手紙に書き留めて送っている。このことから、ペトラルカは「登山の父」と呼ばれ、この日を登山の生まれた日としている。これは、文化史家のヤーコプ・ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』の中で紹介されている。旅の途中での必然的な山越えではなく、山に登ること自体を目的として試みられた近代最初の出来事である。[要出典]

ルネサンスの始まりとともに趣味やスポーツとしての登山が行われるようになった。また、測量目的の登山も行われるようになり、フランス王シャルル8世1492年エギーユ山フランス語版の登頂を命じたのは、この範疇に入る。レオナルド・ダ・ヴィンチはヴァル・セシア郊外の雪山に登り、様々な実験や観察を行った。16世紀にはスイスチューリッヒを中心に登山を賞賛する動きがあり、コンラッド・ゲスナージョシアス・シムラー英語版が度々登山を行っていたことが記録されている。2人はロープとピッケルを使ったが、一般には広まらなかった。17世紀のヨーロッパには登山の記録がまったく残されていない。[要出典]

近代登山の始まり

モンブランを見つめるM.G.パカールの像

18世紀後半、アルプス最高峰のモンブラン登頂が達成されたことが、近代的登山(近代登山、スポーツとしての登山[1][4])の幕開けとなった[10][1][4]。1760年、自然科学オラス=ベネディクト・ド・ソシュールシャモニーを訪れ、モンブラン初登頂を成し遂げた者に賞金を出すと宣言し、それに応える形で1786年にミシェル・ガブリエル・パカール英語版およびジャック・バルマ英語版が登頂に成功した[10][1][4][注 4]

アルプス黄金時代

19世紀に入って、ヨーロッパ・アルプスの登山は盛んになった[10]。特にイギリス人によってアルプス黄金時代がもたらされ、登山技術の面でも急激な進歩があった[10]マッターホルン(4,477m)は従来、登ることが不可能と見なされていたが、1865年7月14日にエドワード・ウィンパーが登頂に成功した[10][11]。1857年には世界で最初の登山団体となるイギリス山岳会が設立された[10]。1854年のヴェッターホルン英語版初登頂から1865年のマッターホルン初登頂までをアルプス黄金時代と呼ぶ[11][1]

アルプス銀の時代

アルプス黄金時代の間に、アルプス山脈の4,000m級の峰が登りつくされ未登峰がなくなると、岩壁や側稜などからの登山といったより困難なルート(バリエーションルート)からの登頂や、季登山、案内人を付けない登山などが行われるようになった[10][12]。その背景には、より困難なルートからの登山を提唱したママリー(1855-1895)の思想があり、これがママリズムとして近代のアルピニズムの主な思想となった[10][13]。新しい山を求めてカフカスアンデスなどにも目が向けられ始めた[10]。1865年のウィンパーによるマッターホルン登頂から、1882年のダン・デュ・ジュアン英語版初登頂までをアルプス銀の時代と呼ぶ[14]

銀の時代以後

ヒマラヤ

登山のメッカ、ヒマラヤ連峰のアンナプルナIII峰

世界最高峰のエベレストが有名である。

日本

赤岳山頂の登山者

日本においては、717年泰澄和尚が開山した白山701年越中国(富山県)国司の息子有頼が開山した立山など、宗教にまつわり山を開いたとする開山縁起が残っている[15][16]都良香の富士山記に、富士山頂の様子の記述がある[16]鎌倉時代(1185年頃 - 1333年)・室町時代(1336年 - 1573年)以降も北海道を除く全国各地の山岳寺院に所属する山伏による山岳修行が盛行し[17]、各山地の尾根道をメインルートとした入峰修行登山の記録が残されている[18]。最も記録が多く残されているのは紀伊半島の大峰山脈で、東北では羽黒山・月山、関東では日光、丹沢、中部地方の富士山、九州では英彦山など、調査研究も進んでいる[19]。ただし、この登山文化は明治5年(1872)の修験道廃止令で一旦は途絶えることになった。

日本において、宗教目的以外で記録される著名な登山といえば、安土桃山時代1584年(天正12年)12月の佐々成政による「さらさら越え」(北アルプス越え)である。しかも、これは比較的容易な無積雪期ではなく、冬季の積雪期に敢行されたという点でも注目されている。ルートは、立山温泉-ザラ(佐良)峠-平の渡し(黒部川)-針ノ木峠-籠川(かごかわ)の経路が有力視されているが、確証はない。立山の一の越-御山谷ルート、別山-内蔵助谷ルートをとったという説もある。

ザラ峠とは安房峠(古安房峠)のことを指す、佐々成政は安房峠を越える鎌倉街道を通って越中富山-遠江浜松を往復したのだ、という説もある[20]

同様の軍事的な意味合いの登山としては、武田信玄の配下の武将山県昌景が、1559年(永禄2年)に飛騨を攻めるのに上高地から安房峠(古安房峠)を超えて入った事例が知られている[16][21]

1640年(寛永17年)に加賀藩によって設置され1870年(明治3年)まで続いた黒部奥山廻り役は、藩林保護のための検分登山を行い、北アルプスの主峰のほとんどを登って回った[16]。 文化13年(1816年)、小尾権三郎(延命行者)の甲斐駒ヶ岳文化・文政期(1804年 - 1829年)、1819年の明覚法師と永昌行者による乗鞍岳1828年播隆上人による槍ヶ岳など、開山が相次ぐ。また、立山講や御岳講、駒ヶ岳講などの中登山が盛んになる。寛政期(1789年 - 1800年)に寺社詣でが解禁され、『東海道中膝栗毛』(1802年 - 1822年)が人気を博すなど、民衆の間に旅行人気が広まったことが背景として考えられ、参加する者の多くにとっては、宗教的な意味合いよりも、物見遊山としてのものだったと考えられる[15]

江戸時代文人画池大雅医者川村錦城、医学者橘南谿画家谷文晁などが、山そのものを味わうために山に登ったことが知られている[16]

江戸幕末北アルプス麓にある入四ヵ村で年に薪五千間、板子八万梃を伐採しに二ノ俣あたりまで入っていたなど、多くは記録に残っていないが、歴史を通じて、人や狩猟採鉱などの山仕事でたくさんの人が山に入っていたと考えられる[15]

富士山頂の登山者(富士宮口頂上)

江戸幕末以降、複数の欧米人が富士山に登った。1860年(万延元年)7月、オールコック大宮・村山口登山道から登り登頂している。1867年(慶応3年)10月にはパークス夫人が、1868年(明治元年)7月にサトウが登っている[16]

日本での近代登山の幕開け

明治時代(1868年 - 1912年)、1874年ガウランドアトキンソンサトウの三人の外国人パーティが、ピッケルとナーゲルを用いた登山を日本で初めて六甲山で行った。ガウランドは1881年槍ヶ岳と前穂高岳に登山して「日本アルプス」を命名した人物で、サトウは富士山に最初期に登った外国人としても知られる[22]

日本アルプスには、上記3名のほか、ウォルター・ウェストンバジル・ホール・チェンバレン、フランシス、ミルン など複数の欧米人が登った。15版まで重版されるベストセラーとなった志賀重昂の『日本風景論』が1894年(明治27年)10月に出版されるまでの時期を、明治時代日本アルプス登山史の第一期とする見方がある[23]

その見方では、それ以降参謀本部陸地測量部による1913年(大正2年)の地図刊行までをその第二期とする。第二期には、冠松次郎木暮理太郎小島烏水、近藤茂吉、三枝守博、武田久吉、田部重治、鳥山悌成、中村清太郎 らが北アルプスに登った[23]。陸地測量部は館潔彦柴崎芳太郎などの測量官を派遣し、一等三角測量を完成し、地図を刊行した。第二期を、小島烏水は日本登山史上の探検時代と呼んでいる[16]

明治期の日本アルプスの登山では、長野県内野常次郎上條嘉門次梓川渓谷)、小林喜作(中房渓谷)、遠山品右衛門(高瀬川渓谷)、横沢類蔵、富山県宇治長次郎、佐伯源次郎、佐伯平蔵、山梨県の大村晃平、中村宗義(早川谷)など、地元の猟師が案内をした[23][24]

槇有恒-----アイガー東山稜の初登山者。

日本の「近代登山」の始まりをどの時点に置くかは、人によって解釈が様々であるが、1874年(明治7年)に六甲山における、ガウランドアトキンソンサトウの3人の外国人パーティによるピッケルとナーゲルを用いた登山が、日本の近代登山の最初とされることが多い[22]1889年(明治22年)には、ウェストンによってテント・ザイル等が持ち込まれ、ウェストンの助言で小島烏水らが1905年(明治38年)に日本で最初の山岳会「山岳会」(後の「日本山岳会」)を設立した。この年を近代登山の始まりとする説もある。また今西錦司の言うように1918年(大正7年)の第一次世界大戦の終戦時をもって近代登山の幕開けとされることもある。

明治時代、北アルプスの地元では、学校登山が行われた。1883年(明治16年)に窪田畔夫白馬岳に登った渡辺敏は、長野高等女学校校長時代、理科体育教育の目的で、1902年(明治35年)より毎年、戸隠山白馬岳富士山などへの登山を実施した。富山師範学校教諭の保田広太郎は、1885年(明治18年)頃より、学生を連れて立山などに登った。河野齢蔵1893年(明治26年)から動植物採集の目的で北アルプスの山々に登り、大町小学校校長のとき、学校で登山を奨励した[25][26]

明治時代、測量地理学的な目的での登山が行われた。1882年(明治15年)8月の内務省地質測量長ナウマン博士の命令による横山又次郎一行の南アルプス横断、1885年(明治18年)全国地質測量主任ライマンの助手坂本太郎の槍ヶ岳-薬師岳縦走、1889年(明治22年)農商務省地質調査所大塚専一による針ノ木岳-立山-後立山縦走などである[16]

陸地測量部によって、1907年(明治40年)までに、日本アルプスの主峰のほとんどに、三角点が設置された[16]

探検時代の後[27]、明治末から大正にかけて、日本アルプスへ登山する人たちが増え始め[28]、大正期に大衆化した[29][注 5]1915年(大正4年)の上高地 大正池の出現や、皇族の登山などが、人々を山へ誘った[30][注 6]

これを受けて、1907年(明治40年)に松沢貞逸が白馬岳山頂近くに橋頭堡を築いて営業を開始したのに始まり、1916年(大正5年)に松沢貞逸が白馬尻小屋を、1918年(大正7年)に穂苅三寿雄がアルプス旅館(槍沢小屋)を、1921年(大正10年)に赤沼千尋が燕ノ小屋(燕山荘)を、百瀬慎太郎が1925年(大正14年)に大沢小屋、1930年(昭和5年)に針ノ木小屋の営業を開始するなど、山中で登山者が休憩・宿泊する山小屋の営業が始まった[28]

また、1917年(大正6年)の百瀬慎太郎による大町登山案内者組合結成をはじめ、1918年(大正7年)の赤沼千尋の有明登山案内者組合、1919年(大正8年)の松沢貞逸の四ツ谷(白馬)登山案内者組合、1922年(大正11年)の奥原英男による島々口登山案内者組合結成など、山案内人(山岳ガイド)の利用料金および利用者と案内人の間のルールの明示・統一が試みられた[28][注 7]

1921年(大正10年)の槇有恒アイガー東山稜登攀をきっかけとして、大正末期にアルピニズムの時代に入った。「先鋭的な登攀」が実践され、「岩と雪の時代」「バリエーションの時代」と呼ばれた[32]。大学や高校の山岳部が、より困難なルートの制覇を目指して山を登った[33]

1936年(昭和11年)には日本では初(戦前では唯一)となるヒマラヤ山脈への遠征が、堀田弥一を隊長とする立教大学隊によりナンダ・コート英語版(標高6867メートル、当時はイギリス領インド帝国内)を目標に実施され、初登頂に成功した[34]

1937年(昭和12年)に始まる日中戦争1938年(昭和13年)に制定される国家総動員法などの時代情勢により、登山ブームは下火になる[35][注 8]

1945年(昭和20年)の第二次世界大戦終了後、大学・高校の山岳部の活動が再開された[36]

日本隊のマナスル初登頂の影響

1950年代、ヒマラヤで、1950年(昭和25年)のアンナプルナ1953年(昭和28年)のエベレスト1956年(昭和31年)のマナスルの初登頂など、8000メートル峰(14座ある)の初登頂ラッシュ[37][注 9]が続き、これを受け再び登山ブームが起きた。このブームの特徴は、大学や高校の山岳部に代わって、社会人山岳会の活動が活発になったことである[38]。この時期、1955年(昭和30年)有名なナイロンザイル事件が起きた[39]。また、谷川岳では、多発する遭難事故を受けて、群馬県が1966年(昭和41年)に群馬県谷川岳遭難防止条例を制定した[40][注 10]1971年(昭和46年)、海外で「先鋭的な登攀」を行ってきた人達が(社)日本アルパイン・ガイド協会を設立し、登山のガイドや山岳ガイドの養成、資格認定などを行い始めた[41]1960年代 - 1970年代、山岳部や山岳会が「先鋭的な登攀」を続ける一方で、一般の人々がハイキングから縦走登山、岩登りまで、好みと能力にあわせて広く楽しむようになった[42][注 11]

1966年3月26日、富山県が、全国初の登山届出条例を制定、12月1日実施。12月17日、群馬県は、谷川岳遭難防止条例を制定、1967年3月1日実施。

1980年代、山岳部や山岳会が衰退し始め、また、登山者に占める中高年者の割合が増え始めた。若い世代が山登りを3Kというイメージで捉えて敬遠するようになり、育児が一段落した人たちが山登りを趣味とし始め、仕事をリタイアした世代が若い頃に登った山に戻り始めたことが理由であると考えられる。これに健康志向日本百名山ブームが輪をかけ、2010年現在に至っている。このブームで、ツアー登山が盛んになった[44][注 12]。このブームの時代、1990年(平成2年)、各地に設立された山岳ガイド団体が日本山岳ガイド連盟を設立し、ガイド資格の発給を行うようになった。2003年(平成15年)、日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド連盟を合併して(社)日本山岳ガイド協会が発足、日本全国統一基準のガイド資格が生まれた[41][注 13]。また2010年今日、また若者が登山に戻りつつある[46][注 14]

2010年前後には旧来の山岳雑誌とは異なったライト感覚の登山・アウトドア雑誌が多く創刊され、それとともに山ガールという言葉がマスコミに踊ったことにより、従来の汗臭い、泥臭い男性中心で危険な登山というイメージからの脱皮が計られるようになった。また、登山ウェアや用具なども技術革新、新素材の登場によって、よりファッショナブルで軽量な物が開発されるようになった。2020年頃からは登山YouTuberと呼ばれる人たちがインターネット上で山行動画を公開し始めたことも、初心者の若者中心に登山需要を少なくなく喚起しつつあると思われる。一方で、それらの多くが山岳部や山岳会などに所属しないフリーな登山活動であったため、経験の蓄積のないままランクの高い山に不用意に入ってしまうという安全上の懸念も生んでいる。これを第4次登山ブームと呼ぶべきかについてはまだ諸説ある。


注釈

  1. ^ うっかりテントのポール(柱)をザックに入れ忘れて、山中で窮地に陥る登山者も多い。
  2. ^ 登山の楽しみのひとつでもあるので、若干量ならば嗜好品も持ってゆく登山者も多い。
  3. ^ ただし、複数のウェアにフードがついている場合は反って邪魔になることもある。レイヤリングの中で1着だけフード付きのウェアにすると解決できる。
  4. ^ アパレルメーカーによってはスキンウェアまたはドライレイヤーと称する場合もある。いずれの場合でも汗をベースレイヤーに吸収させる役割を持つ。[要出典]
  5. ^ 冬山用には中綿やフリースを組み合わせてミッドレイヤーとしての役割も合わせ持つアウターもある。[要出典]
  6. ^ 体力や装備、あるいは天気図に関する技能・知識や、高山植物応急処置の方法、テントの設営技術等を、審査員がそれらの達成度を採点し、高校ごとに順位を決定する。隊列に遅れず登頂を目指すのも体力点として高得点ではあるが、他にもマナーや態度、知識や服装にも気を遣う必要がある。
  7. ^ 3〜4日間をテントで過ごし、食事も寝床もすべて自分達で持ち歩き準備しなければならない登山競技は、インターハイにおいては最も厳しい競技のひとつである。
  8. ^ 地方大会では実力の優劣をはっきりとさせるために重量規制があり、現段階では4人で60kgという規定がある。その60kg以外に、飲料として使用する、ケガの治療などとして使用するために綺麗な水なども要するため、実質70kgにも75kgにも及ぶことなどが多々あるという。
  9. ^ 厳密に言えば登山とトレッキング、ハイキング、ワンダーフォーゲルには細かい差異があるが、山岳での野外活動という点で共通している。
  10. ^ ナイロンザイル事件を参照。
  11. ^ 「行事」も「人事」も、ここでは、人間が行う事柄を指す。
  12. ^ ある主要な季語について別表現と位置付けされる季語を、親子の関係になぞらえて、親季語に対する「子季語」という。「傍題」ともいうが、傍題は本来「季題」の対義語である。なお、子季語の季節と分類は親季語に準ずる。

出典

  1. ^ ただしアルピニズムという語が生まれたのは19世紀後半であるとされている[4][6]
  2. ^ モーセシナイ山から十戒を授かり、神との契約関係に入ったとされる[5][7]
  3. ^ 山が美の対象として認識されるようになったのはルネサンス時代からであるとされる[10]
  4. ^ 翌年にはソシュール自身も登頂に成功した[10]
  5. ^ 羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、この大正期から昭和初期、戦争によって下火になるまでの間のブームを、第1次登山ブームと呼んでいる[29]
  6. ^ 東久邇宮稔彦王秩父宮雍仁親王が登山に親しんだ[30]
  7. ^ 1925年(大正14年)長野県制定の登山者休泊所及案内者取締規則により山案内人の公的な資格認定が始まり、その流れは1953年(昭和28年)の長野県観光案内業条例に引き継がれた。この条例の資格を受けた者は、2001年(平成13年)は579人[31]
  8. ^ 登山者は非国民と呼ばれるなどの時代情勢になった[35]
  9. ^ アンナプルナはフランス隊による「人類初」の8000メートル峰登頂、エベレストはイギリス隊のエドモンド・ヒラリーとシェルパのテンジン・ノルゲイによる世界最高峰初登頂、マナスルの初登頂は槇有恒率いる日本山岳会隊の今西壽雄とシェルパのギャルツェン・ノルブによるもの。
  10. ^ 谷川岳の遭難死者数は2008年(平成20年)までに792人であり、「世界でいちばん遭難死者が多い山」としてギネス世界記録に認定されているという[40]
  11. ^ 羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、このブームを第2次登山ブームと呼んでいる[42]。同書によれば、一般的には、このブームを第1次登山ブームと呼ぶ場合が多いという[43]
  12. ^ 「旅行会社のパック旅行のような[45]」形態のツアー登山の先駆けは、1970年代末頃と考えられる[44]
  13. ^ 2007年(平成19年)日本アルパイン・ガイド協会が日本山岳ガイド協会を脱会、2010年(平成22年)1月現在、山岳ガイドの資格認定を行う全国的な団体は2団体となっている[41]
  14. ^ 羽根田治『山の遭難 あなたの山登りは大丈夫か』 (平凡社、2010年)は、近代登山以降という尺度で見た場合という観点からとして、ここから続くブームを第3次登山ブームと呼んでおり[46]、このブームの始期は1980年代後半から1990年代初頭と認識するのが妥当ではないかとしている[47]
  15. ^ メンバーの体力・技術・経験からパーティの能力を考え、それに適合した山を選ぶ[8]
  16. ^ 極地法と反対に、少人数でメンバー交代をせず、行動開始地点から短期間で一挙に目的地に達する方法をラッシュタクティクスという[48][49]
  17. ^ 尾根をつたい、いくつもの山頂を歩いてゆくこと[56]
  18. ^ 「高山病」の発症リスクは体力の有無とは関係なく、また、高齢者より若い人に多く発症する症候群である[66]
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