生目神社
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/31 03:19 UTC 版)
生目神社 | |
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所在地 | 宮崎県宮崎市大字生目小字亀井山345 |
位置 | 北緯31度55分05.8秒 東経131度22分36.4秒 / 北緯31.918278度 東経131.376778度座標: 北緯31度55分05.8秒 東経131度22分36.4秒 / 北緯31.918278度 東経131.376778度 |
主祭神 | 品陀和気命・藤原景清公 |
社格等 | 旧県社 |
創建 | 不明 |
本殿の様式 | 入母屋造銅板葺 |
別名 | 生目八幡宮 |
例祭 | 11月23日 |
主な神事 |
縁日祭(旧暦1月15 - 17日) 里神楽祭(3月中旬) |
祭神
品陀和気命(ほんだわけのみこと)(応神天皇)と藤原景清公を主祭神に、彦火瓊々杵尊、彦火火出見尊、鵜茅葺不合尊の3柱を相殿に祀る。
由緒
鎮座地周辺は豊前宇佐八幡宮の神領地である宮崎庄に含まれるため、荘園の鎮守として八幡神を勧請したのが創まりと考えられ[1]、『宇佐大鏡』に因れば天喜4年(1056年)には既に鎮座していたようであるが、元亀、天正の頃(16世紀末)、兵火に罹って記録類を焼失したために詳しい沿革は不明である[2]。なお、「生目」の神社名については一説に、源平合戦(治承・寿永の乱)の後に源頼朝に捕らわれた藤原景清が、源家の栄達を目にすることを厭うとともに源家への復讐を断念するために自身の両眼を抉ったところ、その志を賞した頼朝から日向勾当という勾当職と日向国の地300町(およそ3,600坪)を与えられたといい、当地へ下向した景清の没後にその(抉った)両眼を祀ったことによると伝えるが[1]、別に、古くからの眼病治癒の霊地であったために「生目(活目)八幡宮」と称したとも、景行天皇の熊襲征伐の途次、先帝である活目入彦五十狭茅尊(いきめいりひこいさちのみこと。垂仁天皇)の崩御日にその霊を祀る祭祀(先帝祭)を当地において営んだため、住民がこれを嘉して引き続き聖地として崇め、「活目八幡宮」と称えたともいう[3]。なお、藤原景清が祀られるに至った経緯については庄官等の宮崎庄の経営に関係した人物に偶々「悪七兵衛」か「景清」を名とする者がおり、これを著名な藤原景清に付会する説が起こったためと解する説もある[4]。
明治3年(1870年)に現在の社名に改め、同5年郷社に列し、翌6年県社に昇った。
信仰
鎮座地の亀井山に湧く清水が6方へと流れ、亀の頭、尾、左右手足を髣髴とさせるが、かつては眼病を患う者がこの水を掬って目を濯ぐ習わしがあり、現在も眼疾治癒を望む参詣者はこの水で沸かした茶を飲む。戦前には熊本県の天草等の眼疾患者が農閑期を選んで参拝し、平癒祈願の成就を願ってこの水を汲みつつ1箇月、3箇月と逗留し、その間は筵を打つ等して生活費を稼いだという[5]。
また、元祿2年(1689年)3月3日に豊後国日田郡の郡代、池田季隆が参詣し「かげ清く照らす生目の鑑(かがみ)山、末の世までも曇らざりけり」と詠じたところ、「鑑山」を「水鑑」と改め、これを唱える事で霊験が得られようとの神託が下ったため、季隆により「かげ清く照らす生目の水鑑、末の世までも曇らざりけり」と改められ、爾来神詠歌として参詣者に唱えられることとなった[6]。
- ^ a b 『神道大辞典』、平凡社、昭和12年。
- ^ a b 『宮崎県神社誌』。
- ^ 『宮崎県神社誌』。但し、最後説に従えば祭神は垂仁天皇となる。
- ^ 吉田東伍『大日本地名辞書』、冨山房。
- ^ a b “生目神社”. 宮崎市生目商工会. 2010年10月15日閲覧。
- ^ a b 『宮崎縣史蹟調査』第1輯、宮崎縣、昭和2年(西日本図書館コンサルト協会復刻、昭和55年)。
- ^ 伊藤常足『太宰管内志』。
- ^ a b 『祭礼行事・宮崎県』、おうふう、平成10年。
- ^ “県指定有形文化財”. 宮崎市役所. 2010年10月15日閲覧。
- ^ 平成30年10月31日文部科学省告示第208号
- ^ 「文化審議会答申〜国宝・重要文化財(美術工芸品)の指定について〜」(文化庁サイト、2018年3月9日発表)
- ^ “市指定有形文化財”. 宮崎市役所. 2010年10月15日閲覧。
- ^ a b “市指定天然記念物”. 宮崎市役所. 2010年10月15日閲覧。
- ^ a b 『宮崎市の文化財』(第4版)、宮崎市教育委員会、昭和62年。
固有名詞の分類
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