甘粕事件 事件の経緯

甘粕事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/18 06:05 UTC 版)

事件の経緯

発覚

事件を報じる毎日新聞の紙面(10月の報道規制解除後)

1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災によって東京神奈川が混乱に陥るとして戒厳令が発せられていた最中の9月16日大杉栄は内縁の妻で作家の伊藤野枝を連れて、鶴見区三笠園[注 2]に住居があった辻潤(伊藤の前夫)を見舞いに向かうも、辻は不在だった。そのため近くの橘樹郡鶴見町[注 2]に住んでいた栄の実弟である大杉勇の自宅を訪問したところ、偶然にも大杉の末妹・あやめとその息子・橘宗一(6歳)[注 3]が滞在しており、宗一が「東京の焼け跡を見に行きたい[3]」と言ったため、これを理由に同行して東京に戻ることとなった。その日の夕方に自宅近くまで戻り、野枝が果物を購入していたところ、張り込んでいた憲兵隊によって淀橋警察署から麹町憲兵司令部へ連行され、消息を絶った[4]。行方が分からなくなった大杉を友人で読売新聞記者の安成二郎[注 4]が捜索するも見つからず、安成は大杉らが事件に巻き込まれたことと直感する。さらに宗一が二重国籍だったことから、大杉家の家人は警察へ向かう前に米国大使館へ急行してこれを伝え、直ちに警察へ捜索願を提出した[5]

警視庁は捜索願を受けて驚き調査し、淀橋警察署が憲兵隊による検束を報告したために警視庁が問い合わせたところ、憲兵は大杉らを既に帰したと返答した。警視庁は、行方不明の大杉が何らかの計画を行っている可能性を受け、血眼で捜索した[6]。大杉はアナキストの大立者で[7]、戒厳令が解除されて新聞の報道規制が敷かれると9月18日の報知新聞夕刊にて「大杉夫妻が子供と共に憲兵隊に連れて行かれた[8]」と報道されて噂が広まった。警視庁官房主事の正力松太郎は以前から大日本帝国陸軍が「何かやるらしい」とは聞いていたものの沈黙を守っており、大杉夫妻が消息を絶ったことが新聞によって報道されて初めて事態を憂慮し、警視総監湯淺倉平に相談する。湯淺は新任の後藤新平[注 5]内相に報告するが後藤から総理へ報告するよう言われたため、湯淺はそのまま総理大臣山本権兵衛と面会して報告した。山本は直ちに陸相・田中義一に聞くと「知らん」と言われ、関東戒厳司令部福田雅太郎を呼び出して問いただすも福田は関知していなかったため、憲兵隊の捜査が開始された[8]

捜査の結果、内部の犯行が明らかとなった。田中が改めて憲兵司令官の小泉六一を呼び出して問い詰めるも、小泉は憲兵大尉・甘粕正彦の犯行を認めた上で賛美したため、田中は叱責して小泉に謹慎を命じた[9]。憲兵隊司令部では事件から3日後の9月19日のうちに、甘粕と甘粕の部下である森慶次郎が衛戍監獄に収監された[6]。同日中に古井戸から遺体が引き上げられ、朝日新聞は偶然のきっかけから警察より情報を入手する。

影響

9月20日、読売新聞時事新報が「甘粕憲兵大尉が大杉栄を殺害」との一報を号外で発した[10]大阪朝日新聞は東京からの電話によって、同日中に2回にわたって号外を出した[注 6]。さらに時事新報は記者を憲兵隊本部に張り込ませ、大杉のほかに内縁の妻である伊藤野枝と子供1名が殺害されたことと、現場となった古井戸を確認した[11]。この時、米国大使館からは「自国民(宗一)が危険に瀕している」として日本政府に抗議し、事態の解明と保護を図るよう求めていた。しかし閣議では、既に国際問題に発展していることと複数の新聞社が情報を掴んでいる以上、事態の揉み消しは不可能との結論に至った。

一方、軍では突如として同日付けで東京憲兵隊渋谷分隊長兼麹町分隊長の甘粕正彦憲兵大尉、東京憲兵隊本部付(特高課)憲兵曹長・森慶次郎が「職務上不法行為を行った」として軍法会議に送致し、関東戒厳司令部戒厳司令官・福田雅太郎を更迭、憲兵司令官・小泉六一少将と東京憲兵隊長で憲兵大佐・小山介蔵を停職処分とすることを発表した。同時に本件に関する人文記事を差し止める情報統制を決定した[12]。これ以降の新聞各紙は核心部分を全て伏字として報じた。報道は止められたものの情報自体は電話で各社に拡散していたため、検閲を掻い潜った九州日報翌日にも号外を発行している[13]。戒厳令のもとで不眠不休で治安維持にあたっていた軍隊に、世論は反軍的な者でさえも支持や敬意を表していたが、突然の司令官更迭について詳細が報じられなかったことから衝撃が広がった。流言飛語が盛んになっていたこともあって人心不安が高まり批判が強まる中で[12]、軍は前日の予審の結果を受けて9月25日に第一師団司令部[注 7]発表として、甘粕が「16日の夜に大杉と他2名を某所に連行して殺害した」と公表した。当初は「他2名」が何者であるかは公表されなかったが、10月8日に記事差し止め処分が解除されると「他2名」は大杉の内縁の妻・野枝と橘宗一であることを報じ、日本を騒がせるアナキストで恋愛スキャンダルでも有名だった大杉・伊藤の2人に加え、当時6歳の小児までもが殺害されたとあって世間は騒然とした[14]

軍法会議

9月24日に軍法会議予審が行われ、事件の概要が明らかにされた。軍法会議の公判[注 8]も急いで行われ、それによると甘粕らは、関東大震災の混乱に乗じてアナキストらが不穏な動きを起こして政府転覆を企てると憂慮し、アナキストの主要人物だった大杉と野枝を殺害すること決めたという。予審で明らかになったところでは、9月16日に大杉ら3人が鶴見から帰宅する際に自宅付近で甘粕と森(のちに明らかになる所によれば、鴨志田安五郎・本多重雄を加えた4名)が張り込んでおり、子供だけは帰宅させてくれと懇願する大杉の要望を拒否して強引に3名を拉致し、麹町憲兵分隊に連行した。東京憲兵隊本部で夕食が出されたが大杉と野枝は手を付けず、宗一だけが食べた。大杉はナイフを借りて野枝が購入していた梨を食べ、午後8時になって3人が別々の部屋へ移された。

甘粕は、予審調書で大杉と野枝を自身が絞殺したと認めた。大杉は応接室で森と雑談を含めた取り調べを受けていたが、そこへ入室した甘粕が背後から柔道の締め手のように大杉の首を右手で締め、森は苦しむ大杉の足を押さえつけた。15分ほどして大杉はぐったりして亡くなった[15]が、念のためとしてさらに麻縄で大杉の首を絞めたという。午後9時15分に甘粕は階下の隊長室に連行された野枝のもとを訪れて会話し、油断した野枝を大杉と同様の手口で絞殺した[注 9]。のちに発見された検死資料で明らかになった執拗な暴行についてはこの時点で語られず、公判でも明らかにされることは無かった。

甘粕は最初、「個人の考えで3人を殺害した」として大杉と伊藤の間に出来た子供と誤解された宗一の死についても認めたが、軍法会議では宗一の死の経緯を調書で省略したことに官選弁護人の塚崎直義が疑念を持って追及した[16]。甘粕の母親は「正彦は特に子供好きでした。罪も無い子供に手をかけるなど有り得ない[17]」と涙ながらに主張したこともあって自白を一部撤回させ、「自分は子供は殺していない。菰筒みになったのを見て初めてそれを知った」と証言を変え、宗一の殺害は否認した。宗一は連行される時から甘粕に懐いており、宗一の死についても便所に行くといってその場を離れており、立ち会っていないと主張した。この供述の撤回によって予審の内容が覆され、塚崎は捜査のやり直しと公判の中止を申請した[18]陸軍省から宗一殺害の再捜査が命令されると[19]10月5日になって憲兵上等兵の鴨志田安五郎、本多重雄が共犯として自首し、翌日には憲兵伍長・平井利一も見張り役として関与したことを自白して、被告人は5名となった。鴨志田と本多は宗一殺害を認めたが、甘粕と森が「『上官の命令だからやり損なうな』と会話していた」と証言して波紋を呼んだ。しかし小泉と小山がこの証言を否定した後、以降は軍の上層部が関与した疑惑については追及すらされなかった。結局は森が鴨志田へ「お前がやれ」と命令したとされ、鴨志田と本多が手を下すこととなった。鴨志田と本多は殺害を躊躇していたが命令には逆らえず、鴨志田が首を絞めて本多が押さえつけて殺害した。森は「甘粕大尉が『子供も殺せ』と命令した」と主張し、自分に命令したのは甘粕だと供述したが、甘粕は投げ槍な態度で「森が言うのですからその通りでしょう。私は軍人であります。命令しました[17]」と自分が責任を被ってやると言わんばかりの答弁をして、再度供述を翻した。遺体の処分方法については甘粕と森が話し合い、構外に運び出すと事件が露見するとして森が難色を示し、甘粕は3人が着ていた着物を鋏で切って全裸にてに包んで古井戸に落とした。衣類は翌日に別の場所で焼却処分し、古井戸には事件について何も知らない人間に指示して馬糞煉瓦を投げ込ませて埋められた。

動機については前述のように、関東大震災の混乱に乗じて無政府主義者(アナキスト)が朝鮮人を扇動して騒動を起こすという噂を信じていたとされた。甘粕は「大杉の次は堺利彦福田狂二を殺害する予定だった」と供述した[20][注 10]。さらに甘粕らは、最も危険視された大杉が検挙されていないために「遣っ付けろ」という意見が淀橋警察署内で挙がったが、警察では実行できないから憲兵でやってくれないかという話も存在したと供述した。しかし淀橋警察署の署員は「記憶に無い」と殺害の依頼を否定し[21]、真相解明には至らなかった。また新聞では、宗一の殺害理由について野枝の殺害を目撃したことによる口封じのためと報じられたが公判では取り上げられず、前述のように甘粕が森らに命令した事実のみが認定され、宗一の死に関しては理由が経緯が解明されなかった[22]。判事の一人として審理に関与していた法務官の小川關治郎は甘粕の追及に厳しかったとされているが、第1回の公判の後に弁護側が、小川が被害者と同郷かつ遠縁であるとの理由で忌避申請し、小川は交代させられている。しかし、小川の三女である長森光代の証言によれば大杉家の所在地が小川の出生地と近いことは事実だが、小川自身はもとより誰からも大杉と遠縁だったとは聞いておらず、地元の識者も否定しているという[23]。この交代の経緯については当時から不信感をもって受け止められていたようで、社会主義者の弁護で知られた弁護士の山崎今朝弥は、「小川は、大杉君の妹の亭主の兄の妻の妹の夫の祖父の従兄弟の養家先の孫である」と揶揄している[24]

世論と判決

このスキャンダラスな事件については、軍法会議の内容が連日詳しく報道された。現代とは異なり、亀戸事件や朴烈事件などのように関東大震災直後に発生した社会主義者、労働活動家、朝鮮人に対する警察や軍隊による不法拘束・虐殺についてすら世論は二分されていたが[注 11]、弁護士の塚崎のもとには鴨志田や本多らの下士を罰するのみで「甘粕を減刑させたら承知せぬ」という社会主義者からの脅迫が届いた[25]。一方で「甘粕は国士である」との肯定的な評価から「国賊・大杉を処断した甘粕大尉に減刑を」との署名が数十万名分も集まるなど、甘粕を支持する声も強かった。また、甘粕自身も命令を受けて行動したのみで、真犯人を庇って責任をたった一人で被ったのであって、真相は闇の中であるという意見も根強くあった[26]。しかし軍法会議では事件の背後関係には立ち入らないまま、11月24日に検察の求刑と最終弁論が行われ、12月8日に殺害を実行および命令したとして甘粕を首謀者と断じ、懲役10年(求刑は懲役15年)、森には懲役3年(求刑は懲役5年)、鴨志田と本多には命令に従っただけとして無罪(求刑は両者とも懲役2年)、見張り役として関与した平井には証拠不十分として無罪(求刑は懲役1年6ヶ月)が言い渡された。甘粕に懲役10年が告げられると、傍聴人の中には判決に不満を示して草履を投げ入れる者や怒号を上げる者がいたが甘粕は黙ったまま退廷し、無罪となった3名は安堵の表情で退廷した。


注釈

  1. ^ 伍長・平井利一の関与は証拠不十分とされ、判決で不法行為を行ったとされたのは4名。
  2. ^ a b 現在の横浜市鶴見区
  3. ^ 父親の橘宗三郎は渡米中で不在だった。宗一はアメリカとの二重国籍を持っており、失踪後にあやめはアメリカ大使館に駆け込んで真相究明を訴えたため、隠蔽が難しくなった。
  4. ^ 安成は、村木源次郎(アナキスト)と共に、大杉一家の死体検分と火葬にも立ち会った。
  5. ^ 後藤はこの年の6月にアドリフ・ヨッフェを招請して日ソ国交回復の端緒をつくったことで、陸軍の一部から「赤」呼ばわりされていたので陸軍との関わりを避けた。
  6. ^ 東京朝日新聞は震災と検閲で印刷できず。このため大阪朝日新聞が発行した。
  7. ^ 軍法会議は同師団の管轄となった。
  8. ^ 第1回公判は10月4日に始まったが供述の撤回により一時中断し、10月8日にやり直された。11月16日から第2回公判が始まり、11月22日に結審した。
  9. ^ 甘粕の供述はその後に行われた検死調書の結果とは合わないものであった。検死では両名には長時間暴行された形跡があったが、甘粕の供述では尋問らしい尋問は行われておらず、わずか10~15分で死に至っている。
  10. ^ この話は上砂勝七の回顧録とも内容が一致する。
  11. ^ 当時、軍隊に対する支持は高く、反対に社会主義者やアナキスト、共産主義者に対する評価は低かった。
  12. ^ 特に証拠は無いようだが古田や村木、和田ら無政府主義者は、指揮命令系統のトップだった福田が大杉を殺す命令を出したに違いないと判断して暗殺を計画した。
  13. ^ 森と刑務所で面会した憲兵大佐・斉藤美夫が「大杉を殺したのは麻生三連隊だ」という森の証言を聞いたというもの。
  14. ^ 大山郁夫と安成二郎(質問者本人)であろうと想像するが正力は明言せず。
  15. ^ 1924年10月14日読売新聞前編輯局長招待会での談話の記録。(当時は第5部長/婦人部であった)安成二郎が後に『自由思想』2号で「大杉栄虐殺に関するメモ」として寄稿したもの。
  16. ^ 吉薗はユダヤ陰謀論者のようでユダヤつながりの話が度々登場する。
  17. ^ 藤根大庭のこと。建築家・請負師。周恩来の日本での下宿先の大家。
  18. ^ ただし特にゆすりについては吉薗も確信があったわけではなく、想像の範囲を出ていない。別の記述で、甘粕の処遇を上原にたずねて、甘粕を庇い無政府主義者の終焉を喜ぶ上原の言葉で、吉薗は事件が上原の命令であったに違いないと思うに至るわけであるが、上原の発言は当時の一般的な保守論調に沿ったものであって、特に命令を示唆した内容ではないので、あくまでも私見に過ぎず異説である。

出典

  1. ^ 我妻栄 1969, p. 437.
  2. ^ 松村, 明 編『大辞林』(3版)三省堂、2006年。ISBN 978-4385139050 
  3. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.301
  4. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, pp.300-301
  5. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.306
  6. ^ a b 帝都罹災児童救援会 1924, pp.306-307
  7. ^ 上柳延太郎『危険思想に面して』松華堂、1924年。 [要ページ番号]
  8. ^ a b c 安成二郎『無政府地獄―大杉栄襍記』新泉社、1973年。ISBN 978-4787773067 [要ページ番号]
  9. ^ 佐野 2008, p.126
  10. ^ 山川均; 賀川豊彦; 和田久太郎; 村木源次郎; 安成二郎; 山崎今朝弥; 岩佐作太郎; 内田魯庵 ほか『新編 大杉栄追想』土曜社、2013年。ISBN 978-4990558796http://www.doyosha.com/2013/08/21/%E5%A4%A7%E6%9D%89%E6%A0%84%E8%BF%BD%E6%83%B3-%E3%83%97%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%83%AA%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9/ [要ページ番号]
  11. ^ 佐野 2008, pp.64-69
  12. ^ a b 帝都罹災児童救援会 1924, pp.298-299
  13. ^ 小野秀雄『号外百年史』読売新聞社、1969年。 
  14. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, pp.299-301
  15. ^ 帝都罹災児童救援会 1924, p.302
  16. ^ 塚崎 1937, pp.110-113
  17. ^ a b 角田 2005
  18. ^ 塚崎 1937, p.113
  19. ^ 塚崎 1937, p.114
  20. ^ 高田 1932, p.293
  21. ^ 佐野 2008, pp.76-77, 105
  22. ^ 塚崎 1937, pp.114-119
  23. ^ 『ある軍法務官の日記』(株)みすず書房、2000年8月10日、222頁。 
  24. ^ 『地震・憲兵・火事・巡査』岩波文庫。 
  25. ^ 塚崎 1937, p.115
  26. ^ 友納友次郎『国立国会図書館デジタルコレクション 教育革命焦土の中から』明治図書、1925年、207-214頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981909/112 国立国会図書館デジタルコレクション 
  27. ^ 佐野 2008, p.69
  28. ^ 近親にも知らせず、既に仮出獄『時事新報』大正15年10月17日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p10 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
  29. ^ 武藤富男 著「満州建国の黒幕・甘粕正彦」、平塚柾緒 編『目撃者が語る昭和史 第3巻 満州事変』新人物往来社、1989年、183-184頁。 
  30. ^ 佐野 2008, pp.460-462
  31. ^ 「ニューリーダー」2001.06月号[要文献特定詳細情報]
  32. ^ 上砂勝七『憲兵三十一年』東京ライフ社、1955年。 ASIN B000JB544W [要ページ番号]
  33. ^ 佐野 2008, pp.70-71
  34. ^ 佐野 2008, pp.135-141
    全文は1984年版(復刻判)の「大杉栄追想」に収録。2013年版の新編には付いていないので注意。






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