焼玉エンジン 歴史

焼玉エンジン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 21:02 UTC 版)

歴史

ホーンスビー・アクロイド式機関

焼玉エンジンの概念はイギリスハーバート・アクロイド=スチュアートが考案したのが始まりであった。アクロイドは1886年明治19年)にその概念により焼玉エンジンの試作機を製作、1890年(明治23年)にその特許を申請した。1892年(明治25年)にイギリスのリチャード・ホーンスビー・アンド・サンズ社がスチュアートの特許により初めて商品化した。このエンジンは、特許出願者と製造者の名前を採りホーンスビー・アクロイド式機関と呼ばれ、4ストロークエンジンであった。

アレン社製70英馬力2ストローク焼玉エンジン

その後、イギリスのジョセフ・デイが開発した吸気バルブの無いクランク室圧縮式掃気法の2ストロークエンジンのアイデアを取り入れて、アメリカのドイツ系移民のミーツとワイスが焼玉エンジンを開発した。彼らの会社であるミーツ・アンド・ワイス・ワークス社は、この初の2ストローク焼玉エンジンを商品化した。このエンジンはミーツ式機関と呼ばれ、注水式焼玉エンジンと呼ばれるタイプものである。その仕組みは、掃気ポート(シリンダー内に新気が入る入口)に水を滴下しその水蒸気がシリンダー内に入り燃焼時の燃焼温度を下げ、高負荷時の焼玉の加熱損傷を防ぐものであった。同時に滴下した水が爆発行程中に蒸発・膨張するため、出力を上げる役目も果たした[1]。その反面このエンジンは、負荷や回転数の変化に応じて注水の時期と加減が必要で、その操作のために人が張り付いていなければならず、また当時の石油系燃料には硫黄分が多く[2]、燃料に使うと水蒸気と硫黄が反応してできる硫酸によりエンジン内部が腐食してしまうという欠点を持っていた。

その後、ミーツ式機関と同様の2ストロークエンジンをスウェーデンボリンダー社も商品化し、その改良型である無注水式焼玉エンジンを開発し商品化した。無注水式焼玉エンジンは、焼玉のシリンダー側下半分の周囲にウォータージャケット(水の通り道)を備え水冷を行い、掃気ポートへの水の滴下なしに、焼玉の必要以上の高温化を防ぐものである。従来の注水式焼玉エンジンの欠点を克服するものであった。このエンジンは、ボリンダー式機関と呼ばれ、日本では漁船などの小型船用エンジンとして大いに普及し、焼玉エンジンの代名詞にもなった。小型船用で普及した焼玉エンジンのシリンダー数は普通1気筒から4気筒で、直列配置で、竪型(直立シリンダー型)である。小型船用の焼玉エンジンの1気筒当たりの出力は、およそ3 - 30日本馬力を出すことができた[3]

2ストローク型焼玉エンジンは、4ストローク型焼玉エンジンと比べ同排気量ならば出力(パワー)は大きく、小型化に向いていた。また、石油ガスから軽油や重油まで幅広い種類の燃料が使用できるため、定置用はもちろんのこと可搬型やトラクターなどの農業機械用や小型漁船などの船舶用として普及した。しかし、1950年代に入り石油精製工業の発展による供給量の拡大によってガソリンや軽油の入手が容易になったこと、昭和30年代に熱効率に優れるユニフロー掃気ディーゼルエンジンの普及によって焼玉エンジンは衰退し、駆逐された。


  1. ^ 一部文献にこれを「水の熱分解による水素と酸素に発生により、それが燃焼した」という記述が散見されるが、この当時の焼玉機関程度の温度(400℃前後)では水の熱分解(少なくとも700℃以上が必須)は発生しないため誤りである。
  2. ^ 重油はもちろん、例えば日本ではJIS1号灯油(主に暖房・灯具用)制定前の石油系軽質燃油には多量の硫黄が含まれていた。後年ディーゼルエンジンの排ガス浄化の妨げにもなっており、動力用の石油系脱硫燃油が主流となるのは時代も大きく下って21世紀を待たなければならない。
  3. ^ 藤田護『小型船エンジン読本、三訂版』成山堂書店、1998年、157頁。ISBN 4-403-61051-X 
  4. ^ 大半の車両は歯車駆動。
  5. ^ 文献によっては80輌以上とするものもあるが、早期に運用停止した事業者から他社に譲渡された車両を重複計算している可能性があり、正確な数値は判然としない。
  6. ^ 申請に対する認可という形で各軌道ごとに施行された。
  7. ^ 最大在籍輌数は20輌。廃線前の1939年(昭和14年)4月に偶然同地を訪れた牧野俊介が撮影した写真と記述(『昔々の軽便のアルバム 自転車に抜かれたコッペルたち』プレス・アイゼンバーン、1980年、pp94-99)によれば、当時少なくともNos.2・7・10・12・18の5両が現役として存在し、車庫には10両分以上の石油発動車用部品が蓄積されていたという。なお、1934年(昭和9年)の段階で羽犬塚 - 黒木間の路線長は17.2 km、自動車では所要50分のところを石油発動車は1時間20分かけて運行していた。
  8. ^ 中岩瀬SLを走らせる会(NSL)”. 2014年9月20日閲覧。





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