板垣信方
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家族
板垣信方に所縁の地
- 上原城 - かつて城主の館があったとされる郭には、この城に在城した板垣にちなみ板垣平と呼ばれている。
- 板垣信方屋敷 - 山梨県甲府市屋形3丁目5番地附近
- 上田原古戦場 - 長野県上田市上田原
- 板垣神社 - 長野県上田市下之条
参考文献
- 平山優「板垣信方」柴辻俊六編『武田信虎のすべて』(新人物往来社、2007年)ISBN 4-404-03423-7
- 平山優『戦史ドキュメント 川中島の戦い 上巻』(学研M文庫、2002年)ISBN 4-05-901126-6
- 柴辻俊六編『武田信玄大事典』(新人物往来社、2000年)ISBN 4-404-02874-1
- 野澤公次郎『武田二十四将略伝』(武田神社、1993年)
関連作品
- 映画
- テレビドラマ
- 『天と地と』(1969年、NHK大河ドラマ、演:大友柳太朗)
- 『武田信玄』(1988年、NHK大河ドラマ、演:菅原文太)
- 『武田信玄』(1991年、TBS、演:若林豪)
- 『風林火山』(1992年、日本テレビ、演:夏八木勲)
- 『風林火山』(2006年、テレビ朝日、演:夏八木勲)
- 『風林火山』(2007年、NHK大河ドラマ、演:千葉真一)
- 舞台
- 『風林火山』(2008年、演:千葉真一)
- 『歳が暮れ・るYO 明治座大合戦祭』(2018年、演:中村龍介)
関連項目
- ^ a b c 恵林寺蔵、松本楓湖筆の板垣駿河守信方肖像画に「維歳明治壬申夏四月爲機山公三百年祭尊遺臣、二十八家之裔孫各模其祖、肖像以恭供尊前焉。遠孫板垣正形謹誌」とあり。
- ^ 明応元年(1492年)説あり。
- ^ 江戸時代初期に建立
- ^ 昭和8年(1933年)4月、建立。所在地:群馬県伊勢崎市東本町354
- ^ 『板垣精神』
- ^ 『向嶽寺文書』
- ^ 『甲陽軍鑑』では信虎・晴信の間には軋轢が存在し、晴信は信方と甘利虎泰の両人を頼りにして事を起こしたとしている。
- ^ 「両職」は天文20年に板垣信憲・甘利昌忠の在職が確認されるが(坂名井家文書)、『国志』では遡逆して両名の父である信方・虎泰が務めたとしている。
- ^ 『甲陽軍鑑』や『名将言行録』にはこの頃のこととして信方の忠節ぶりを示す有名なエピソードがある。気が緩んだ若い晴信は詩会や遊興に耽るようになった。信方は病と称して暇を受けて30日間留守にした。再び出仕した信方は晴信の詩会に出席して見事な詩を五度も書いてみせた。晴信がどこで学んだのかと問うと、信方は主君の嗜むことを家臣がしないのはどうかと思い留守の間に僧に学んだと答えた。晴信が機嫌を良くすると、信方はすかさず「父君は非道が過ぎたために追放されたのに、それから3年も経たずにこの有様では信虎様以上の悪大将であられる。腹立たしければご成敗ください。それがしは何時でも馬前で討ち死にする所存です」と諫言をした。晴信は感涙して、それ以後はよき大将になったという。
- ^ 笹本正治『諏訪市史』など。なお、戦国大名の領域支配においては国郡制の「郡」とは異なる独自の領国内地域区分である「郡」単位の支配が行われているが、武田領国における郡代は「郡司」に相当し、信方の事例のように新規支配地において城将が兼任し、郡司職を兼ねた城将が「城代」に相当している可能性が考えられている。
- ^ 『甲陽軍鑑』によると戦勝した信方は小笠原勢へ追い討ちをかけるが不意打ちを受けて敗北してしまい、他の家臣は信方の責任を問うが、晴信は後続に損害を出さずに踏み止まった信方を褒めたという。
- ^ 『甲陽軍鑑』などによると信方は、この頃から増長気味の行いが目に付くようになったという。戦勝の折に晴信の許可なく勝鬨式や首実検等を行うようになり、晴信からやんわりと「誰もみよ、満つればやがて欠く月の、十六夜ふ空や、人の世の中」と和歌でその行いを窘められる等、大人気ない行いが目立つようになった。また軍才もやや衰え気味で、天文16年(1547年)の村上氏との戦いではあわや全滅の憂き目に会い、原虎胤に救援されたりしている。
- ^ 「皆も知っているように、美しい十五夜(満月)もいずれは欠ける。満月を過ぎた十六夜の月は、欠けて行く事を知って居るのだろうか。人の世もまた同じである」という意味。
- ^ 上田原の戦いで信方は先陣を務め、緒戦では村上軍を撃破するが、気を緩めてしまい勝鬨をあげ備から離れて首実検をはじめた。村上勢は体勢を立て直して急襲し、信方は馬に乗ろうとしたところを敵兵に槍で突かれ討ち取られた(『甲陽軍鑑』による)。また異説として、退却を始めた村上軍に対し、信方の隊が深追いしすぎたため孤立、反撃に転じた村上軍の将、上条織部によって討たれたとも言う(三田村孝「板垣信方(形)の家族とその子孫」による)。
- ^ または「はかなくも、なお、このもとの夕映えに、月影宿す、花の色ぞ」とも。意味は「いずれはかなく散っていく定めを知りながら、夕方の薄暗がりの中で月の光を受けて、精一杯咲いている花の色は見事である」や、「夕映えと重なるように飽きる事無く月の光が差し込めば、花も一際美しく咲き誇る事であろう」など解釈は数種ある。「木のもと」は「武田家の連枝(親族衆)」、「月影」は「信方」、「花」は「武田信玄(武田家)」を表しているとも言われる。
- ^ 板垣信方の娘婿。実は於曾氏。永祿元年(1558年)、武田信玄の命に依って、板垣家を再興
- ^ 永原一照次男
- ^ 板垣退助五男、絶家再興
- ^ 乾正春の養子となる
- ^ 『一蓮寺過去帳』による。
- ^ 明治期の政治家、板垣退助は、戊辰戦役の際に、甲府城掌握を目前とした1868年(慶応4年)2月に美濃大垣で「自分の十代前の先祖が、板垣信方の孫、正信である」として、本姓の「乾」から「板垣」へと戻した。乾家の先祖は、信方の嫡子・信憲で、信憲の子・加兵衛正信が、1590年(天正18年)、遠州掛川で山内一豊に召し出された際、家老・乾和三(山内備後)の姓を賜って以後代々「乾」姓を称し、土佐藩山内家に仕えた。
- ^ 『寛政重修諸家譜』によると酒依氏を継ぎ、後年徳川氏に仕え代々旗本として存続した
- ^ 上州板垣氏家伝、及び常清寺(伊勢崎市)の「板垣駿河守信形墓」碑によると、三男(二男との説もある)信廣は信方の死後上野国に移り、嫡流は名主として、分流は伊勢崎藩士として栄えた。
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