日本橋箱崎町
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/06 07:49 UTC 版)
概要
オフィスビルが多数立ち並ぶ街で、通称として「箱崎町」「箱崎」と呼ばれる。首都高速道路の高架下にある東京シティエアターミナル (T-CAT) には、リムジンバスのバスターミナルがあり、羽田・成田空港等へ向かう。2002年までは出国審査が行われていたが、2001年に起こったアメリカ同時多発テロ事件の影響で警備が強化されたことによって廃止された。箱崎JCTは首都高速道路の要所で、慢性的に渋滞が発生することで知られている。
日本橋箱崎町全域が江戸三大祭で知られる富岡八幡宮の氏子地域である。
中央区が定める正式な英語ローマ字表記は Nihonbashi-hakozakicho である[4]。
地理
日本橋地域の東側に位置する。 北で日本橋蛎殻町、北西で日本橋小網町、北東で日本橋浜町、西で新川、東で日本橋中洲、南で江東区佐賀と接する。
歴史
天正期に南部、寛永期に北部が埋め立てられた。もと隅田川、日本橋川、箱崎川、浜町川に囲まれた島地であり、北部を箱崎町一・二丁目、西部を北新堀町、残り大部分を武家地が占めた。1657年(明暦3年)に幕府御船蔵、1665年(寛文5年)に船見番所が設けられ、水運行政の拠点となった。元禄・享保期には奈良屋茂左衛門の弟、安左衛門が大規模な蔵屋敷群を構えた。1698年(元禄11年)には永代橋が架橋され、袂には商業が栄えた。安左衛門の没落後、蔵屋敷は1740年(元文5年)三井家に買い取られた。
1872年(明治5年)、武家地跡に箱崎町三・四丁目が起立する。1880年(明治13年)北新堀町にコンドル設計による開拓使物産売捌所が設けられ、翌々年の開拓使廃止後には日本銀行が入居するなど一躍経済の中心地となったが、1896年(明治29年)に日本銀行は現在地に移転。さらに翌年には永代橋が日本橋川を挟んだ下流側に移設されると町の賑わいも失われ、箱崎町は再び三井倉庫や日本郵船などの倉庫が立ち並ぶ町へと戻った。
昭和40年代には、首都高速道路の建設やそれに伴う堀の埋め立てが進み、周囲の環境は一変した。1976年(昭和51年)に日本橋北新堀町と日本橋箱崎町一から四丁目までが一つになり、現在の日本橋箱崎町が成立。現在でも、町内会名などにその名残がある(箱崎北新堀町会、箱崎二・三町会、箱崎町箱四町会)。
地名の由来
当町は隅田川対岸の富岡八幡宮との縁が深く、同じ八幡宮である筑前国筥崎宮との関連が指摘されるが、具体的な由来は不明である。過去に箱池あるいは箱崎池が存在したことによるともいう。
旧町名
- 日本橋北新堀町
- 日本橋箱崎町(1丁目 - 4丁目)
世帯数と人口
2019年(令和元年)9月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
町丁 | 世帯数 | 人口 |
---|---|---|
日本橋箱崎町 | 2,299世帯 | 3,856人 |
固有名詞の分類
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