島原の乱 乱の勃発

島原の乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/18 01:10 UTC 版)

乱の勃発

首を落とされた地蔵。蜂起した信者が切り落としたと伝わる。
天草四郎が使ったとされる旗印天草切支丹館所蔵)

島原の一揆

過酷な取立てに耐えかねた島原の領民は、武士身分から百姓身分に転じて地域の指導的な立場に立っていた旧有馬氏の家臣の下に組織化(この組織化自体を一揆と呼ぶ)、密かに反乱計画を立てていた。肥後天草でも小西行長・加藤忠広の改易により大量に発生していた浪人を中心にして一揆が組織されていた。島原の乱の首謀者たちは湯島(談合島)において会談を行い、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年天草四郎(本名:益田四郎時貞、天草は旧来天草の領主だった豪族の名)を一揆軍の総大将とし決起することを決めた[16]。寛永14年10月25日(1637年12月11日)、有馬村のキリシタンが中心となって代官所に強談に赴き代官・林兵左衛門を殺害[17]、ここに島原の乱が勃発する。

この一揆は、島原半島の雲仙地溝帯以南の南目(みなみめ)と呼ばれる地域の組織化には成功し、組織化された集落の領民たちは反乱に賛成する者も反対する者も強制的に反乱軍に組み込まれたが、これより北の北目(きため)と呼ばれる地域の組織化には成功しなかった[18]。反乱に反対する北目の領民の指導者は、雲仙地溝帯の断層群、特にその北端の千々石断層の断崖を天然の要害として、一揆への参加を強要しようとして迫る反乱軍の追い落としに成功したので、乱に巻き込まれずに済んだ(南目の集落の中には参加しなかった集落もあり、また北目の集落から一揆に参加したところもある)。

島原藩の対応

島原藩は直ちに討伐軍を繰り出し、深江村で一揆軍と戦ったが、兵の疲労を考慮して島原城へ戻った[19]。一揆軍の勢いが盛んなのを見て島原藩勢が島原城に篭城して防備を固めると、一揆軍は島原城下に押し寄せ、城下町を焼き払い略奪を行うなどして引き上げた[20]。島原藩側では一揆に加わっていない領民に武器を与えて一揆鎮圧を行おうとしたが、その武器を手にして一揆軍に加わる者も多かったという[18]。一揆の勢いは更に増し、島原半島西北部にも拡大していった。一時は日見峠を越え長崎へ突入しようという意見もあったが、後述する討伐軍が迫っていることにより断念する[21]

天草の一揆、島原と合流、原城篭城

これに呼応して、数日後に肥後天草でも一揆が蜂起。天草四郎を戴いた一揆軍は本渡城などの天草支配の拠点を攻撃、11月14日に本渡の戦いで富岡城代の三宅重利(藤兵衛、明智秀満の子)を討ち取った[22]。勢いを増した一揆軍は唐津藩兵が篭る富岡城を攻撃、北丸を陥落させ落城寸前まで追い詰めたが本丸の防御が固く落城させることは出来なかった。攻城中に九州諸藩の討伐軍が近づいている事を知った一揆軍は、後詰の攻撃を受けることの不利を悟り撤退[23]有明海を渡って島原半島に移動し、援軍が期待できない以上下策ではあるが島原領民の旧主有馬家の居城であった廃城・原城址に篭城した。ここに島原と天草の一揆勢は合流、その正確な数は不明ながら、37,000人程であったといわれる[24]。一揆軍は原城趾を修復し、藩の蔵から奪った武器弾薬や食料を運び込んで討伐軍の攻撃に備えた。

慶長9年(1604年)に主要部の竣工が行われた際に、原城はキリスト教による祝別を受けており(『1604年度日本準管区年報』)[25]、キリストによって祝別された原城は、キリシタンの人々にとって強固な軍事施設であるとともに籠城するのに相応しい城であったといえる[26]

篭城した一揆軍の竪穴建物群

原城の本丸西側からは立て籠もった一揆軍が使用したと推測される竪穴建物跡群が検出された[27]。一辺が約2~3mを測る方形の竪穴建物跡である。竪穴建物跡群は規格性があり、同一集落を基本とした家族単位で使用したと考えられている。さらに冬場の籠城であるにもかかわらず、竪穴建物では、個別にカマドといった暖房や煮炊きにかかわる遺物や遺構の痕跡が見つかっていない。それらのことから、籠城中に失火で火災を起こさないようにした大名軍勢並みの軍規の存在を物語るといえる[27]

ポルトガルの援軍期待説

一揆軍はこれを機に日本国内のキリシタンを蜂起させて内乱状態とし、さらにはポルトガルの援軍を期待したのではないかと考える研究者もいる[28]。実際、一揆側は日本各地に使者を派遣しており[29]、当初にはポルトガル商館がある長崎へ向けて侵行を試みていた。これに対応するため幕府は有力大名を領地に戻して治安を強化させていた[30]。この時期にポルトガルが援軍を送ることは風の関係で実際には困難であった。乱後、天草四郎等の首は長崎・出島のポルトガル商館前にさらされた[31]


注釈

  1. ^ 山田右衛門作を除く。1万人以上が落城前に幕府軍に投降していたという説もある。
  2. ^ 副使の石谷は旗本であり、大名ですらない。
  3. ^ 将軍徳川家光の異母弟で幕府の大政参与だった保科正之の派遣も検討された。
  4. ^ 1637年9月、幕府の榊原職直馬場利重は当時オランダ商館のフランソワ・カロンに対してマカオ、マニラ、基隆侵略の支援をするよう高圧的にせまっている。カロンはマニラを襲撃する気も、日本の侵略軍を運ぶ意志はなく、オランダはいまや兵士よりも商人であると答えた。これに対して長崎代官であった末次茂貞はオランダ人の忠誠心は、大名が将軍に誓った忠誠心に等しいと念を押している。この点は、この文書がオランダの上層部で議論されるようになったときにも失われることはなかった。将軍に仕えるという評判を捨てて、貿易に影響を与えるか、それとも海外遠征に人員と資源を投入して、会社の全艦隊が破壊されるかもしれないという大きな危険のどちらかを選ばなければならなかったのである。彼らは危険を選び、日本の侵略軍をオランダ船6隻でフィリピンに運ぶことに同意した[40]
  5. ^ 幕府の軍事支援要請にオランダ人が応じたことで、オランダは他のヨーロッパ諸国から強く非難されたという[41]
  6. ^ 元の副使・石谷貞清も、板倉重昌の嫡子重矩と共に突入している。

出典

  1. ^ 岡田 1987, p. 309.
  2. ^ 岡田 1987, p. 3.
  3. ^ 服部 2008, p. 134.
  4. ^ a b c 吉村 2015, p. 11.
  5. ^ オランダ商館長日記 p116-118、1637年12月17日。[信頼性要検証]
  6. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 98. The Nagasaki bugyō were the chief representatives of the Tokugawa regime in the city. Following Hideyoshi’s confiscation of Nagasaki from the Jesuits in 1587, the place was not given to a daimyō (the normal procedure elsewhere in Japan) but retained as “crown property” under the bugyō, a word best translated as “commissioners.” For most of the period under discussion there were two bugyō in office at the same time. As part of their duties involved the supervision of international trade, it was only appropriate that Takenaka was involved in the espionage.
  7. ^ Stephen Turnbull 2016, p. 7.
  8. ^ “Events in Filipinas, 1630–32,” 2 July 1632, in The Philippine Islands, 1493–1803, ed. Blair and Robertson, vol. 24, pp. 229–30.
  9. ^ Stephen Turnbull 2016, p. 8.
  10. ^ Hayashi, Shimabara Hantō-shi, p. 980;Nagasaki-ken shi, p. 246.
  11. ^ Iwao, “Matsukura Shigemasa,” p. 101.
  12. ^ Stephen Turnbull 2016, p. 8-9
  13. ^ Hirofumi Yamamoto, Nihon Rekishi Sōsho,vol. 39, Kanei Jidai (Tokyo: Yoshikawa Kobunkan, 1989), pp. 54–55.
  14. ^ The perceived status of the Dutch as the shogun’s “loyal vassals” is brilliantly analysed in Adam Clulow, The Company and the Shogun: The Dutch Encounter with Tokugawa Japan (New York: Columbia Univ. Press, 2014).
  15. ^ Stephen Turnbull 2016, p. 10-11.
  16. ^ 神田 2005, p. 125.
  17. ^ 神田 2005, p. 14.
  18. ^ a b 神田 2005, p. 24.
  19. ^ 神田 2005, p. 18.
  20. ^ 神田 2005, pp. 18–22.
  21. ^ 神田 2005, pp. 125–126.
  22. ^ 神田 2005, pp. 134–136.
  23. ^ 神田 2005, pp. 145–148.
  24. ^ 神田 2005, p. 159.
  25. ^ 千田嘉博 著「城郭史上の原城」、石井進、服部英雄 編『原城発掘』新人物往来社、2000年。 
  26. ^ 服部 2008, p. 120.
  27. ^ a b 松本 2004, pp. 284・286.
  28. ^ 服部 2003, p. 194.
  29. ^ 服部 2003, p. 184.
  30. ^ 服部 2003, p. 185.
  31. ^ 服部 2003, p. 196.
  32. ^ 神田 2005, p. 131.
  33. ^ 神田 2005, pp. 162–164.
  34. ^ 常山紀談19巻、388条[信頼性要検証]
  35. ^ 神田 2005, pp. 167–169.
  36. ^ オランダ商館長日記 p146、1638年1月10日。[信頼性要検証]
  37. ^ オランダ商館長日記 p159-173、1638年2月26日-3月13日。[信頼性要検証]
  38. ^ 「綿考輯録」第五巻、409頁。服部 2003, p. 194
  39. ^ 服部 2003, pp. 195–196.
  40. ^ Stephen Turnbull 2016, p. 9-10.
  41. ^ Gulliver’s Travels, Japan and Engelbert Kaempfer, Bodart-Bailey Beatrice M, Otsuma journal of comparative culture, Vol. 22, pp. 75-100, "Even though the Dutch argued that they assisted the Japanese in political rather than religious strife, the event was much condemned by other European nations. "
  42. ^ 神田 2005, pp. 184–187.
  43. ^ 神田 2005, p. 197.
  44. ^ 神田 2010, p. 199.
  45. ^ 武田昌憲「寛永十四・十五年(島原の乱)当時の藩と島原の乱出兵状況(稿):島原の乱の使者の戦い(3)」『尚絅学園研究紀要 A.人文・社会科学編』第6巻、学校法人 尚絅学園 尚絅学園研究紀要編集委員会、2012年、A1-A24、doi:10.24577/sgba.6.0_A1ISSN 1881-6290NAID 1100095858072022年2月22日閲覧 
  46. ^ 武田昌憲「島原の乱の使者の戦い(4)土佐藩の場合 (尚絅学園創立百二十五周年記念号)」(PDF)『尚絅語文』第2号、尚絅大学、2013年、1-7頁、ISSN 2187-5952NAID 1100095911482022年2月22日閲覧 
  47. ^ 吉村 2015, p. 220.
  48. ^ 神田 2010, p. 197.
  49. ^ a b c 神田 2010, p. 198.
  50. ^ Mason, A History of Japan, pp. 204–205.
  51. ^ Morton, p. 122.
  52. ^ Bellah, Tokugawa Religion, p. 51.
  53. ^ George Elison, Deus Destroyed, The Image of Christianity in Early Modern Japan, Harvard University Press, 1973, p. 208.
  54. ^ José Miguel Pinto dos Santos, THE “KURODA PLOT” AND THE LEGACY OF JESUIT SCIENTIFIC INFLUENCE IN SEVENTEENTH CENTURY JAPAN, Bulletin of Portuguese /Japanese Studies, 2005 june-december, número 10-11 Universidade Nova de Lisboa Lisboa, Portugal, p. 134
  55. ^ 鶴田倉造 著、上天草市史編纂委員会 編『天草島原の乱とその前後』天草市、2005年、235-240頁。 
  56. ^ 井上光貞『年表日本歴史 4 安土桃山・江戸前期』筑摩書房、1984年、106-107頁。
  57. ^ 天草郡記録
  58. ^ 万治元戌年より延享三年迄の人高覚
  59. ^ 高浜村「村鑑」122298人
  60. ^ 『天草郡総人高帳』141588人
  61. ^ a b 「天草崩れ」『日本大百科全書(ニッポニカ)』(コトバンク
  62. ^ 「天草崩れ」『ブリタニカ国際百科事典』ブリタニカ・ジャパン(コトバンク
  63. ^ 「天草崩れ」『世界大百科事典』平凡社(コトバンク






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