右京区
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/21 00:17 UTC 版)
概要
区南部は古くは都の皇族や公家の別荘が点在していたが、現在は主として住宅地になっている。
区西部や北部は山間地である。かつては山国郷(京北山国・黒田地区)の木材が桂川を下り、下流の嵯峨・梅津などで陸揚げされて京の中心部へ運ばれた。
地理
地形
山地
- 主な山
- 主な峠
- 主な丘陵
河川
- 主な川
湖沼
- 主な池
地域
区を構成する町:京都市右京区の町名
区北部の京北は全域が丹波高原に当たる。旧京北町の町役場が置かれた周山と宇津が主な盆地だが、その他は山地で、この盆地をつなぐように桂川が流れる。
区南部は、北方の山岳部を除いては桂川に沿っており、ほぼ平坦である。
京北は編入前から右京区と周山街道(国道162号)や桂川によって結ばれていた。
人口
右京区に相当する地域の人口の推移 | ||||||||||||||||||||||||||||||
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総務省統計局 国勢調査より |
隣接自治体・行政区
歴史
古代
現在の右京区がある地域の歴史は古く、かつてこの地には山背(山城)国府が置かれていたともいわれる。 渡来人の秦氏もこの地方を拠点として活躍したと思われ、氏寺として広隆寺を建立した。 秦氏と関係の深い桓武天皇が平安京を定めると、京中に寺の建立が禁止されていたために、現在の右京区域にも多くの寺社が立ち並んだ。 嵯峨天皇が嵯峨離宮(後の大覚寺)を建てたりするなど多くの貴族はこの地に馴染み、また嵐山に遊んだ。
近世
- 戦国
戦国時代以降より桂川水運が盛んとなり、嵯峨周辺に豪商が成長したが、その中で嵐山の豪商角倉了以が徳川幕府と結びつき、保津川(桂川)ほか各地の河川の開削を行った。このためか角倉家は大いに発展し、東南アジアにまで進出するに至る。鎖国以後も桂川水運の管理を任され、現在の南丹市世木より下流の桂川の重要な港には角倉役所が置かれた。桂川の水運は嵐山や梅津を荷揚場とし、天神川を水路として丹波以北からの品物を京都中に運んだ。
右京区京北地区の歴史としては、平安京造営の際に木材を献上した山国郷が歴史上最初に現れる。これが基となって朝廷に縁を持ち、南北朝時代には光厳天皇が山国郷に一寺常照皇寺を開きこの地に葬られた。戦国時代には土豪宇津氏が当地に割拠したが、明智光秀の攻撃を受けて滅んだ。この地に周山城が築かれたという。
- 江戸
江戸時代には園部藩、篠山藩が支配したが、山国郷は禁裏御料となった。
近代
- 明治
明治維新の際には時代祭行列で知られる山国隊が当地の農民により編成され官軍に参加し活躍した。
近現代
- 昭和
- 1931年4月1日 - 葛野郡嵯峨町、太秦村、花園村、西院村、梅津村、京極村、梅ヶ畑村、松尾村、桂村、川岡村が京都市に編入、右京区が誕生。
- 1945年 - 京都空襲
- 1950年12月1日 - 乙訓郡大枝村を編入。
- 1959年11月1日 - 乙訓郡大原野村を編入。
- 1976年10月1日 - 右京区から西京区が分区(松尾、桂、川岡、大枝、大原野地区は西京区へ)。
現代
- 平成
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