劉邦 生涯

劉邦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/06/05 03:55 UTC 版)

生涯

出生

戦国時代末期にの領域だった泗水郡沛県豊邑中陽里(現在の江蘇省徐州市豊県)で、父の劉太公と母の劉媼の間の男児として誕生した[3]。長兄に劉伯、次兄に劉喜が、異母弟に劉交がいる。『史記』によれば劉媼が劉邦を出産する前、沢の側でうたた寝をしていると、夢の中で神に逢い、劉太公は劉媼の上に龍が乗っている姿を見た。その夢の後に劉邦が生まれたという[4]。また、の「」は『史記』では記されておらず、現在に残る文献で一番古いものでは後漢荀悦漢紀』に記され、『史記』『漢書』の注釈でそれを引用している[注釈 2]。出土史料から諱が「邦」であったことはおそらく正しいと思われる。また、字の「季」は「末っ子」のことである[注釈 3]

その頃の幼馴染に盧綰樊噲がおり[5][6]、共に後の反秦活動に参加している。特に盧綰は、盧綰の父親と劉太公が親友付き合いをしており、また盧綰が劉邦と同じ日に生まれたことから、2人も幼少時から親しくして育った[7]。中国の主要王朝の創始者としては、後年の朱元璋と並ぶ庶民出身者であるが、家族が次々餓死して一家離散した朱元璋ほどの極貧な生まれではなかったとされる。ただし、中年期までろくな定職も持たずに過ごし[8]、まともな読み書きも身につけないままであった。その一方で、遊び人なりに多くの人に好かれていたことは、蜂起後に彼の大きな財産となっている。

任侠生活

反秦戦争に参加する前の劉邦はいわゆる親分肌の侠客であり、家業を厭い、酒色を好んだ生活をしていた。幼い頃の劉邦は、公子である信陵君を慕い、彼の食客だった外黄県令の張耳を訪ねて親交を深めた[9]。その後、魏が秦により滅亡すると、張耳は姓を変えてに忍び込み、劉邦も故郷に戻った。後日、劉邦は帝位についてから大梁を通るたびに信陵君の墓に祭祀を行うことで尊敬を表した[10]。縁あって沛東に位置する泗水の亭長(警察分署長)に就いたが、任務に忠実な官人ではなかった。沛の役人の中に後に劉邦の覇業を助けることになる蕭何曹参もいたが、彼らもこの時期には劉邦を高くは評価していなかったようである。しかしなぜか人望のある性質であり、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり満席になるので、この店は劉邦のツケ払いの踏み倒しを黙認していたと伝えられる[11]

史記によればある時、劉邦は夫役で咸陽に行ったが、そこで始皇帝の行列を見て「ああ、大丈夫たる者、あのように成らなくてはいかんなあ」と語ったという[12]。またある時、単父の有力者の呂公が仇討ちを避けて沛へとやって来た[13]。名士である呂公を歓迎する宴が開かれ、蕭何がこの宴を取り仕切った。沛の人々はそれぞれ進物に金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、蕭何は進物が千銭以下の人は地面に座ってもらおうと提案した。そこへ劉邦がやってきて、進物を「銭一万銭」と呂公に伝えた[14]。あまりの金額に驚いた呂公は、慌てて門まで劉邦を迎え、上席に着かせた。蕭何は劉邦が銭など持っていないのを知っていたので、「劉邦は前から大風呂敷だが、実際に成し遂げたことは少ない(だからこのことも本気にしないでくれ)」と言ったが、呂公は劉邦を歓待し、その人相を見込んで自らの娘を娶わせた[15]。これが呂雉である。

妻を娶ったものの劉邦は相変わらずの侠客であり、呂雉は実家の手伝いをし、2人の子供を育てながら生活していた。史記によればある時、呂雉が田の草取りをしていたところ、通りかかった老人が呂雉の人相がとても貴いと驚き、息子と娘(後の恵帝魯元公主)の顔を見てこれも貴いと驚き、帰ってきた劉邦がこの老人に人相を見てもらうと「奥さんと子供たちの人相が貴いのは貴方がいるためである。あなたの貴さは言葉にすることができない」と言い、劉邦は大いに喜んだという[16]。『史記』には他にもいくつかの「劉邦が天下を取ることが約束されていた」との話を載せている。ただ、それらの逸話の中で劉邦は赤龍の子であるとする逸話は、漢が火徳の帝朝と称することに繋がっている。

反秦連合へ

陳勝・呉広の乱と挙兵

ある時、劉邦は亭長の役目を任ぜられ、人夫を引き連れて咸陽へ向かっていたが、秦の過酷な労働と刑罰を知っていた人夫たちは次々と逃亡した。秦は法も厳しく、人夫が足りなければその引率者が責任を取らされる、とやけになった劉邦は浴びるように酒を飲んだ上、酔っ払って残った全ての人夫を逃がした。そして、行くあてがないと残った人夫らと共に沼沢へ隠れた。すると噂を聞きつけた者が子分になりたいと次々と集まり、劉邦は小規模な勢力の頭となった。

紀元前209年陳勝・呉広の乱が発生し、反乱軍の勢力が強大になると、沛の県令は反乱軍に協力するべきか否かで動揺、そこに蕭何曹参が「秦の役人である県令が反乱しても誰も従わない。人気のある劉邦を押し立てて反乱に参加するべきだ」と吹き込んだ[17]。一旦はこれを受け入れた県令であったが、劉邦の元に使者が向かった後に考えを翻し、沛の門を閉じて劉邦を締め出そうとした[18]。劉邦は一計を案じて、絹に書いた手紙を城の中に投げ込んだ(当時の中国の都市は基本的に城塞都市である)。その手紙には「今、この城を必死に守ったところで、諸侯(反乱軍)がいずれこの沛を攻め落とすだろう。そうなれば沛の人々にも災いが及ぶことになる。今のうちに県令を殺して頼りになる人物を長に立てるべきだ」と書いてあり、それに応えた城内の者は県令を殺して劉邦を迎え入れ、長老らは新たな県令に就く事を求めた[19]。劉邦は最初は「天下は乱れ、群雄が争っている。自分などを選べば、一敗地に塗れることになる。他の人を選ぶべきだ」と辞退したが、蕭何と曹参までもが劉邦を県令に推薦したので、劉邦はこれを受けて県令となった[20]。以後、劉邦は沛公と呼ばれるようになる。

沛公となった劉邦は蕭何や曹参・樊噲らと共に地元の若者2000~3000人らを率いて武装集団を結成し、秦に服属する胡陵・方与などの周囲の県を攻めに行き、故郷である豊の留守を雍歯という者に任せたが、雍歯は旧の地に割拠していた魏咎の武将の周巿に誘いをかけられて寝返ってしまった[21]。怒った劉邦は豊を攻めるが落とすことができず、仕方なく沛に帰った。当時、陳勝は秦の章邯の軍に敗れて逃れたところを殺されており、その傘下に属した戦国時代のの公族の末裔である景駒という人物が、同じく陳勝軍の甯君と秦嘉という者に陳勝に代わる王に擁立されていた。劉邦は豊を落とすためにもっと兵力が必要だと考えて、景駒に兵を借りに行った[22]

紀元前208年、劉邦は甯君と共に秦軍と戦うが、敗れて引き上げ、新たに碭(現在の安徽省宿州市碭山県)を攻めてこれを落とし、ここにいた5、6千の兵を合わせ、さらに下邑(現在の安徽省宿州市碭山県)を落とし、この兵力を持って再び豊を攻めた[23]

豊を取り返した劉邦であったが、この間に豊などとは比べ物にならないほどに重要なものを手に入れていた。張良である。張良は始皇帝暗殺に失敗した後に、旧の地で兵士を集めて秦と戦おうとしていたが、それに失敗して留(沛の東南)の景駒の所へ従属しようと思っていた[24]。張良自身も自らの指導者としての資質の不足を自覚しており、自らの兵法をさまざまな人物に説いていたが、誰もそれを聞こうとはしなかった。ところが劉邦は、出会うなり熱心に張良に言葉を聞き入り、張良はこれに感激して「沛公はほとんど天性の英傑だ」と劉邦のことを褒め称えた[25]。これ以降、張良は劉邦の作戦のほとんどを立案し、張良の言葉を劉邦はほとんど無条件に聞き入れ、ついには天下をつかむことになる。劉邦と張良の関係は、君臣関係の理想として後世の人に仰ぎ見られることになる[誰?]。その頃、景駒は項梁によって殺され、項梁は薛の地にて各地の諸将を招集し、陳勝の死を確認した上で、反秦勢力の新たな頭領として今後の計画に関する会盟を執り行った。また旧懐王の孫にあたる熊心という人物を探し出して楚王の位に即け、祖父と同じ懐王の号を与えて名目上の君主として擁立した。この会盟には劉邦も参加し[26]、項梁の勢力へと参入する事となる。そして項梁より新たに5000人の兵と10名の将を得て、ようやく豊の地を奪還する事に成功した[27]

項梁は何度となく秦軍を破ったが、それと共に傲慢に傾いて秦軍を侮るようになり、章邯軍の前に戦死した。劉邦たちは遠征先から軍を戻し、新たに反秦軍の根拠地に定められた彭城(現在の江蘇省徐州市)へと集結した[28]。項梁を殺した章邯は軍を北へ転じてを攻め、趙王趙歇の居城の鉅鹿を包囲したため、趙は楚へ救援を求めてきていた。そこで懐王は宋義・項羽・范増を将軍として主力軍を派遣し、趙にいる秦軍を破った後、咸陽へと攻め込ませようとし、その一方で劉邦を別働隊として西回りに咸陽を衝かせようとした。そして懐王はこうした行軍の条件に差を設けた上で、「一番先に関中(咸陽を中心とした一帯)に入った者を、その地の王としよう」と約束した[29]

関中入り

劉邦は西に別働隊を率いて行軍し、剛武侯の軍の兵4000を奪った後、魏の将軍の皇欣・申徒・武蒲らと合同して昌邑を攻めたものの、これを落とす事はできず、高陽(現在の河南省開封市杞県)へと向かった[30]。ここで劉邦は儒者酈食其の訪問を受ける。劉邦は大の儒者嫌いで、酈食其に対しても、足を投げ出してその足を女たちに洗わせながら面会するという態度であった。しかしこれを酈食其が一喝すると、劉邦は無礼を詫びて酈食其の進言を聞いた[31]。酈食其は「近くの陳留は、交通の要所であり秦軍の食料も蓄えられているのでこれを得るべきである。城主は反秦軍を脅威に思っているが、民衆からの復讐を恐れているので、降るに降れない。降っても身分を保証すると約束して頂ければ、帰順させるよう説得する」と言った。劉邦はこれを採用し、陳留の県令は説得に応じて降り、交通の要所と大量の兵糧を無血で手に入れた。さらに劉邦はその兵力を合わせて進軍し、大梁を攻め落とした。次いで韓に寄り、寡兵で苦戦していた韓王成と張良を救援して、楊熊率いる秦軍を駆逐し、韓を再建した。そしてその恩義をもって、張良を客将として借り受ける[32]

さらに南陽郡を攻略し、郡守の呂齮を撃破して、呂齮が宛(現在の河南省南陽市宛城区)に逃げ込んだために張良の助言でこれを包囲した[33]。呂齮の舎人である陳恢の説得に応じて、これを降伏させると、呂齮に殷侯の爵位を封じて宛の地を守らせ、[34]。そして魏の人物である甯昌を秦に派遣するが、この間に項羽の軍が章邯率いる秦の主力軍を撃破し(鉅鹿の戦い[35]、秦の内部では動揺が走った。始皇帝の死後、秦の朝廷では宦官趙高が二世皇帝胡亥を傀儡として専横をふるっていたが、この敗戦が胡亥に伝われば自分が責任を取らされると考え、胡亥を弑殺した上で、反乱軍を率いる劉邦に対して、関中を二分して王になろうという密書を送った[36]。劉邦はこれを偽者だと思い、自らの軍をもって武関の守将を張良の策によってだまし討ちにし、これを破って武関を突破した[37]

さらに藍田にて再び秦軍と対峙し、大量の旗を掲げて見せ掛けの兵数を増やし、兵達による略奪を禁じたため、秦の民衆は喜び、反乱軍は再び勝利を収めた[38]。史記の張良の伝である「留侯世家」では、武関の撃破の次の戦いは別の拠点である嶢関の攻略戦であり、張良の策によりまず秦の将軍を降伏させた後で、城内に残る兵士達は士気が高くなおも降伏はしないと見越し、騙し討ちで制圧して嶢関を突破した後に、逃げる兵達を追って藍田にて交戦したとされる[39]

劉邦の軍はやがて覇上(現在の陝西省西安近郊の河川・覇水の周辺の地名)にまで迫った[40]。秦の朝廷ではこの頃、胡亥を暗殺した趙高によって皇族の子嬰が新たに擁立されるも、子嬰は逆に趙高を暗殺し、自らは皇帝ではなく秦王を名乗っていた。子嬰は白装束に首紐をかけた姿で劉邦の軍の前に現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏した[41]。部下の間には子嬰を殺してしまうべきだという声が高かったが、劉邦は「懐王は儂の寛容さに期待を持ったからこそ、儂をここに派遣したのだ。加えて降伏した者に手を掛けるのは不吉だ」と話し、子嬰を官吏に落とすのみで許した上で、咸陽に入城した[42]


注釈

  1. ^ 史記集解』が引用した皇甫謐によると、秦の昭襄王51年に生まれ、在位12年に62歳で崩じたとされている。しかし、『漢書』高帝記の注釈では53歳で崩じたと伝えている。
  2. ^ 「邦」の語義は、元々「幇」(ピンインは“bāng”、意味は「兄貴」)という意味の一般名詞ではないかと推測されている(司馬遼太郎・佐竹靖彦の説)。ただし現在に伝わる「幇」という字の意味には「兄貴」はない。
  3. ^ 父母の名前も、「太公」はある程度年を取った男性の一般呼称であり、「媼」(姓は不詳)も同じく“おばさん”といった程度の呼称、長兄の伯(伯は字)にしてもこれは長男を指すものに過ぎない。このことから、劉邦一家の本名は不明であり、司馬遷が『史記』を書く際にもわからなかったので、思い切ってこのように簡単な名前を付けたという説もある。また、庶民においては正式な名をつけず、「劉家の長男坊=劉伯」や「劉家の末っ子=劉季」といった通称で足りていたという説もある。ただし、次兄の仲や弟にはそれぞれ「喜」「交」という名が伝わっており、一家全員の本名が不明なわけではない。また避諱のため故意に曖昧に記述したという説もある。なお、劉邦の「邦」の字の避諱のため、漢代は以降「邦」の字が公式に使えなくなり、主に「国」の字が代用された。廷臣の最高職名が「相邦」から「相国」に変わったことなどが例である。これは漢滅亡後も元に戻されなかったし、多くの言葉に現代まで継続する影響を与えた。
  4. ^ 明智憲三郎はこの猜疑からの功臣粛清に対し、自身の死後に重臣の趙高や李斯が実権を握った結果、子の扶蘇・胡亥を殺され秦王朝の滅亡にまで至った始皇帝の末路と比較し、自分の死後に謀反簒奪などの危険行為を起こしかねない家臣を自分が生きている間に処分しておく事で(非情ではあるが)子孫を安全に存続させるための責務を果たしたと評価している。

出典

  1. ^ 史記』巻8 本紀8 高祖本紀
  2. ^ 漢書』巻五 景帝紀第五
  3. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖、沛豐邑中陽里人、姓劉氏、字季。父曰太公、母曰劉媼」
  4. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其先劉媼嘗息大澤之陂、夢與神遇。是時雷電晦冥、太公往視、則見蛟龍於其上」
  5. ^ 『史記』巻95 列伝35 樊噲伝「舞陽侯樊噲者、沛人也。以屠狗為事、與高祖俱隱」
  6. ^ 『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰者、豐人也、與高祖同里」
  7. ^ 『史記』巻93 列伝33 盧綰伝「盧綰親與高祖太上皇相愛、及生男、高祖・盧綰同日生、里中持羊酒賀兩家」
  8. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「仁而愛人、喜施、意豁如也。常有大度、不事家人生産作業」
  9. ^ 『史記』巻89 列伝29 張耳伝「張耳者、大梁人也。其少時、及魏公子毋忌為客。張耳嘗亡命遊外黄……秦之滅大梁也、張耳家外黄。高祖為布衣時、嘗數從張耳遊、客數月」
  10. ^ 『史記』巻77 列伝17 魏公子伝「高祖始微少時、數聞公子賢。及即天子位、毎過大梁、常祠公子」
  11. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖毎酤留飲、酒讎數倍。及見怪、歳竟、此兩家常折券棄責」
  12. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖常繇咸陽、縱觀、觀秦皇帝、喟然太息曰:「嗟乎、大丈夫當如此也!」」
  13. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「單父人呂公善沛令、避仇從之客、因家沛焉」
  14. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「蕭何為主吏、主進、令諸大夫曰:「進不滿千錢、坐之堂下。」高祖為亭長、素易諸吏、乃紿為謁曰「賀錢萬」、實不持一錢」
  15. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「臣少好相人、相人多矣、無如季相、願季自愛。臣有息女、願為季箕帚妾」
  16. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「呂后與兩子居田中耨……」
  17. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令恐……乃令樊噲召劉季」
  18. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛令後悔、恐其有變、乃閉城城守、欲誅蕭・曹。蕭・曹恐、踰城保劉季」
  19. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季乃書帛射城上……欲以為沛令」
  20. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「劉季曰……盡讓劉季」
  21. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「周巿使人謂雍齒曰……即反為魏守豐」
  22. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公怨雍齒與豐子弟叛之……欲請兵以攻豐」
  23. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「東陽甯君・沛公引兵西……還軍豐」
  24. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯世家「景駒自立為楚假王、在留。良欲往從之、道還沛公」
  25. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯世家「良數以太公兵法説沛公、沛公善之、常用其策。良為他人者、皆不省。良曰:「沛公殆天授。」故遂從之、不去見景駒」
  26. ^ 『史記』巻7 本紀7 項羽本紀「項梁乃引兵入薛……此時沛公亦起沛、往焉」
  27. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。沛公還、引兵攻豐」
  28. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公與項羽方攻陳留、聞項梁死、引兵與呂將軍俱東。呂臣軍彭城東、項羽軍彭城西、沛公軍碭」
  29. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「趙數請救、懷王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范增為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之」
  30. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公引兵西……西過高陽」
  31. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「酈食其曰……延上坐」
  32. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「食其説沛公襲陳留……因張良遂略韓地轘轅」
  33. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「戰雒陽東、軍不利、還至陽城……更旗幟、黎明、圍宛城三匝」
  34. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「其舎人陳恢曰……引兵西、無不下者」
  35. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「是時章邯已以軍降項羽於趙矣……降章邯、諸侯皆附」
  36. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「及趙高已殺二世、使人來、欲約分王關中」
  37. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公以為詐、乃用張良計、使酈生・陸賈往説秦將、啗以利、因襲攻武關、破之」
  38. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「又與秦軍戰於藍田南……乗勝、遂破之」
  39. ^ 『史記』巻55 世家25 留侯列伝「沛公欲以兵二萬人撃秦嶢下軍……遂北至藍田、再戰、秦兵竟敗」
  40. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「漢元年十月、沛公兵遂先諸侯至霸上」
  41. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「秦王子嬰素車白馬、繋頸以組、封皇帝璽符節、降軹道旁」
  42. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……乃以秦王屬吏、遂西入咸陽」
  43. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「欲止宮休舎、樊噲・張良諫、乃封秦重寶財物府庫、還軍霸上」
  44. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公曰……秦人大喜、爭持牛羊酒食獻饗軍士」
  45. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「或説沛公曰……沛公然其計、從之。十一月中、項羽果率諸侯兵西、欲入關、關門閉」
  46. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「聞沛公已定關中、大怒、使黥布等攻破函谷關。十二月中、遂至戲」
  47. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「沛公左司馬曹無傷聞項王怒、欲攻沛公、使人言項羽曰……欲以求封」
  48. ^ 『史記』巻8 本紀8 高祖本紀「高祖為亭長、乃以竹皮為冠、令求盗之薛治之、時時冠之、及貴常冠、所謂「劉氏冠」乃是也」
  49. ^ 檀上 2020b, p. 82.
  50. ^ 『晋書』巻105「石勒載記下」
  51. ^ 直木孝次郎「持統天皇と呂太后」217-128頁。亀井輝一郎「近江遷都と壬申の乱」6-11頁。加藤洋子「天武天皇の出自と神格化について」21-23頁。






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