上麻生ダム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/30 07:22 UTC 版)
沿革
飛騨川流域の電源開発は、日本電力[注 2]と東邦電力[注 3]の二社が同時並行で進めていた。1919年(大正8年)6月、後に東邦電力に吸収される岐阜電力の前身・岐阜興業は飛騨川中流部の発電用水利権を取得。飛騨川第一・飛騨川第二・飛騨川第三の三発電所を建設する計画を立てた。このうち飛騨川第三発電所計画として選定されたのが、飛水峡の上流部にあたる加茂郡西白川村[注 4]河岐地先、すなわち現在の上麻生ダム地点であった[3]。
1922年(大正11年)岐阜電力は東邦電力と提携することになり、この時点で飛騨川第一発電所を金山発電所と改め、上麻生地点については飛騨川第二発電所に名称を変更し翌1923年(大正12年)6月8日に事業変更申請の許可を岐阜県より受けた。同時期、鉄道省[注 5]が高山本線を上麻生駅まで開通させたことから、当初よりも着工を早めて1924年(大正13年)4月にダム及び発電所の工事に着手した。鉄道による物資輸送が工期の短縮に貢献し、当初の予定よりも1年4か月も早い1926年(大正15年)11月14日に完成させることができた[4]。上麻生ダム完成の同月、東邦電力社長・松永安左エ門は岐阜電力の権利義務をすべて取得し、事実上合併させた[注 6]。
東邦電力はその後、発電所下流の下麻生地点に下麻生発電所を建設する計画を1928年(昭和3年)に立てたが立ち消えになっている。同時期東邦電力は上麻生ダムのほかに下原ダム(下原発電所。1万9,451キロワット)・大船渡ダム(金山発電所。6,425キロワット)・七宗ダム(七宗(旧・飛騨川第一)発電所。5,650キロワット)・名倉ダム(名倉発電所・1万9,678キロワット)・川辺ダム(川辺発電所・2万6,500キロワット)を相次いで完成させ、さらに飛騨川水系の発電所から放流された水を平均化して木曽川に流下させるための逆調整池として大同電力と共同で今渡ダムを木曽川本流に建設する計画を立てた。
ところが戦時体制の強化が国家の課題となり、電力を国家管理すべきという意見が軍部や官僚から強く出された。そして1938年(昭和13年)電力事業を国家が一元的に統制するための電力管理法が成立し翌1939年(昭和14年)日本発送電が発足。東邦電力は強制的に解散させられ上麻生ダムを含む飛騨川の全水力発電所は国家管理の下に置かれた。しかし太平洋戦争の敗戦後日本を占領・統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は日本発送電を戦争に協力した独占資本として過度経済力集中排除法の第二次指定企業に1948年(昭和23年)指定し、1951年(昭和26年)の電気事業再編成令によって全国九電力会社に分割・民営化させた。そして木曽川水系の発電用水利権と発電施設は木曽川を関西電力が、飛騨川を中部電力が保有することになった。
こうして上麻生ダム・上麻生発電所は東邦電力が施工・完成させ、日本発送電による国家統制を経て戦後中部電力が管理を継承し、現在に至っている。
2018年(平成30年)に上麻生発電所取水堰堤は「日本現存最古のローリングゲートの発電用取水堰堤」として、土木学会選奨土木遺産に選ばれる[5]。
注釈
出典
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.718
- ^ 社団法人電力土木技術協会 水力発電所データベース2010年3月26日閲覧
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.540-543
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』p.544
- ^ “土木学会 平成30年度選奨土木遺産 上麻生発電所取水堰堤”. www.jsce.or.jp. 2022年6月9日閲覧。
- ^ 『河川総合開発調査実績概要』第一巻p.67
- ^ 『水資源開発公団30年史』pp.211-213
- ^ 『飛騨川 流域の文化と電力』pp.611-615
- ^ “飛騨川バス転落事故、国道改良工事で慰霊塔移設 遺族ら法要”. 岐阜新聞. (2022年8月19日) 2022年11月13日閲覧。
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