三河国分尼寺跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/08 04:20 UTC 版)
奈良時代に聖武天皇の詔により日本各地に建立された国分寺のうち、三河国(参河国)国分尼寺の寺院跡にあたる。
概要
愛知県東部、豊川市街地から西方の音羽川と白川に挟まれた洪積台地(八幡台地)上、北方の踊山を背景として南側に開けた傾斜地に建立された寺院跡で、三河国分寺跡の北東500メートルに位置する[1]。聖武天皇の詔で創建された国分尼寺の遺構に比定され、現在も残る字名の「忍地(にんじ)」は尼寺の転訛とされる[2]。付近では三河国分寺跡のほか三河国府跡(白鳥遺跡)・船山1号墳(東三河最大の古墳)も立地し、古くから政治的中心地であったことが知られる。寺域では金堂・講堂をはじめとする伽藍のほぼ全容が解明され、特に金堂は尼寺としては最大規模になる点、および回廊には複廊が採用される点で、国分尼寺としては全国で代表的な遺構になる[3]。
寺域は1922年(大正11年)に国の史跡に指定され[4]、1967年(昭和42年)以降に数次の発掘調査が実施されている[2]。現在は史跡整備により中門および回廊の一部が実物大で推定復元された上で、三河国分尼寺跡史跡公園として公開されている[2][5]。
歴史
古代
創建は不詳。天平13年(741年)の国分寺建立の詔の頃に創建されたと見られる。
近年の発掘調査では、金堂・講堂・尼房の造営が先行するのに対して中門・回廊・鐘楼・経蔵の造営はかなり遅れた点、三河国分尼寺の建立は国分僧寺にやや遅れる点が明らかとなっている[2]。特に尼寺跡出土の鬼瓦が形式化の進んだ様相であることから、両寺が他国の国分寺と比べて遅れ気味に建立された様子が示唆される[2]。瓦の製作技法および西隆寺式伽藍配置(西隆寺は神護景雲元年(767年)建立)からは、神護景雲年間(767-770年)まで下る可能性が高いと見られ、同様の伽藍配置の相模国分尼寺とともに称徳天皇時の道鏡政権下での建立の可能性が指摘される[6]。
なお、国府荘山国分寺(三河国分寺後継寺院)に伝わる銅鐘が平安時代初頭頃の作と推定されることから、この銅鐘を使用した国分寺または国分尼寺の鐘楼の建立自体が平安時代初頭まで下る可能性を指摘する説もある[2]。
その後の変遷は詳らかでないが、平安時代末期頃には衰退したと推定される[7]。
近代以降
近代以降については次の通り。
- 1920年(大正9年)、柴田常恵により発見[2]。
- 1922年(大正11年)10月12日、国の史跡に指定(三河国分寺跡と同時)[4]。
- 1967年(昭和42年)、発掘調査(豊川市教育委員会)[2]。
- 1972年(昭和47年)4月22日、史跡範囲の追加指定[4]。
- 1990年(平成2年)、寺域範囲確認の発掘調査(豊川市教育委員会)[2]。
- 1992年(平成4年)、清光寺移転候補地の発掘調査(豊川市教育委員会)[2]。
- 1996-1999年度(平成8-11年度)、史跡整備に伴う発掘調査(豊川市教育委員会)[2]。
- 1999-2005年度(平成11-17年度)、史跡保存整備(豊川市教育委員会)[2]。
- 2005年(平成17年)11月13日、三河国分尼寺跡史跡公園の開園。
- ^ a b c 三河国分尼寺跡(平凡社) & 1981年.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an 三河国分尼寺跡史跡公園ガイド & 2008年.
- ^ 三河国分尼寺跡(国史).
- ^ a b c d 三河国分尼寺跡 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- ^ 豊川市史跡公園条例
- ^ a b c 須田勉 『国分寺の誕生 -古代日本の国家プロジェクト-(歴史文化ライブラリー430)』 吉川弘文館、2016年、pp. 226-231。
- ^ a b 三河国分尼寺跡(国指定史跡).
- ^ a b c 三河天平の里資料館展示解説。
- ^ 三河国分尼寺跡(愛知県ホームページ「文化財ナビ愛知」)。
- ^ 銅鐘 - 国指定文化財等データベース(文化庁)
- 1 三河国分尼寺跡とは
- 2 三河国分尼寺跡の概要
- 3 伽藍
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- 5 関連項目
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