ロレーヌ家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/26 10:13 UTC 版)
ロレーヌ家 Maison de Lorraine | |
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![]() ロレーヌ家の紋章 | |
国 |
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主家 | ジラール家 |
現当主 | カール・ハプスブルク=ロートリンゲン |
滅亡 |
ロレーヌ: 神聖ローマ帝国, ルクセンブルク, パルマ: トスカーナ: メキシコ: 1918 – カール1世は、第一次世界大戦の終結後、国事不関与を宣言 |
分家 |
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概史
シャトノワ家(アルザス家)
ロレーヌ家はジラール家として知られるパリ伯ジェラール1世(779年没)の子孫であると主張した。 10世紀のマトフリート家はジラール家の分家で[3]、この時代に一族はメッツ伯となり、アルザス及びロレーヌの支配者となった。アレクサンドル・デュマの小説『モンソローの奥方』(1846年)で描かれているように、ルネサンス時代にはロレーヌ公は自らの祖先がカロリング朝であると仮冒する主張の傾向が見られたが[4]、実際のところは初期世代に関する文書が余りにもわずかであるために、同家の創始者の家系の復元はかなりの量の憶測が含まれている[3]。
より確実に現れるのは1048年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世が上ロレーヌ公国を最初にメッツ伯アダルベールに、次にジェラールに与えた時であり、その後継者(シャトノワ家またはアルザス家と呼ばれる)は1431年にシャルル2世が死ぬまで保持してきた[5]。
ヴォーデモン家とギーズ家
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F4%2F4d%2FJoinville_Ch%25C3%25A2teau_Grand_Jardin.jpg%2F200px-Joinville_Ch%25C3%25A2teau_Grand_Jardin.jpg)
1453年から1473年にかけての間に、公国はシゃルル2世の娘イザベルの権利から、その夫であるヴァロワ=アンジュー家のルネ・ダンジューに渡った。後にシャトノワ=ロレーヌ家の分家であるヴォーデモン家出身のルネ2世のもとに戻り、ルネ2世は外祖父であるルネ・ダンジューが保持していたバル公位も継承した[6]。ルネ2世の長男アントワーヌはロレーヌを継承、次男のクロードはフランス王フランソワ1世からギーズ公に叙爵されギーズ家を興した。
ユグノー戦争中はヴォーデモン家の分枝であるギーズ家の台頭が目立ち、この一門はフランスの政治に力を及ぼし、フランス国王アンリ3世治世下の後期ではフランス王位継承にも迫った[7]。アンリ3世の兄フランソワ2世の王妃でもあったスコットランド女王メアリー・ステュアートの母であるメアリー・オブ・ギーズはギーズ公クロードの長女であった。
ブルボン朝下ではギーズ家は1688年に本流が断絶、分家はエルブフ公として存続し、フランスにおける高位の貴族の一つとして生き残ったが、一方のヴォーデモン家はロレーヌ公及びバル公として独立を維持した。しかし、ルイ14世の帝国主義的な野心(1669年から1697年にかけてのロレーヌ占領も含まれる)は、ロレーヌ公とハプスブルク家の神聖ローマ皇帝との永続的な同盟を余儀なくさせた。
ハプスブルク=ロートリンゲン家
![](https://weblio.hs.llnwd.net/e7/redirect?dictCode=WKPJA&url=https%3A%2F%2Fupload.wikimedia.org%2Fwikipedia%2Fcommons%2Fthumb%2F9%2F96%2FImperial_Coat_of_Arms_of_the_Empire_of_Austria_%25281815%2529.svg%2F200px-Imperial_Coat_of_Arms_of_the_Empire_of_Austria_%25281815%2529.svg.png)
皇帝ヨーゼフ1世とカール6世の兄弟が男子の後継者を残すことに失敗した結果、1713年の国事勅書に基づいて、カール6世は皇女のマリア・テレジアに家督を継がせることにした。1736年にカール6世はマリア・テレジアとフランツ・シュテファンを、先祖代々の土地であるロレーヌとトスカーナおよびチェシンとの交換の同意を取り付けた上で、結婚させる準備を整えた。
1740年にカール6世が死去すると、ハプスブルク家の領地はマリア・テレジア、フランツ(後に皇帝フランツ1世となる)夫妻の手に渡った。ハプスブルク・ロレーヌ両家の婚姻は王朝の合同を促し、オーストリア継承戦争を生き延びることとなった。フランツ、マリア・テレジア夫妻の娘であるマリア・アントーニアとマリア・カロリーナはそれぞれフランスとナポリ=シチリアの后妃となり、息子のヨーゼフ2世とレオポルト2世は相次いで帝位を継承した。
オーストリア、ハンガリー、ボヘミアの王冠領を含むハプスブルク家の領域の中心を除き、ハプスブルク=ロートリンゲン家のいくつかの分家はトスカーナ(1860年まで)、パルマ(1847年まで)、モデナのイタリア諸国を統治した。一族の一人マクシミリアンはメキシコ皇帝となっている。
1900年にオーストリア大公フランツ・フェルディナント(当時はオーストリア=ハンガリーの推定相続人)はボヘミアの貴族令嬢ゾフィー・ホテクとの貴賤結婚での婚約を結んだ。2人の子孫であるホーエンベルク家はオーストリア=ハンガリーの帝位継承資格から外されているが、ロレーヌに関しては貴賤結婚は非合法化されたことはない。にもかかわらず、フランツ・フェルディナントの弟オットー・フランツの子孫の、皇帝カール1世、その皇太子だったオットー・フォン・ハプスブルク、その長男カール・ハプスブルク=ロートリンゲンの系統が通常は一族の家長と見做されている[8]。オットーは1951年にかつてのヴォーデモン家の拠点であったナンシーでザクセン=マイニンゲン公女レギーナと結婚している[2]。
- ^ Benjamin Arnold. Princes and Territories in Medieval Germany. Cambridge University Press, 2004. ISBN 0521521483. Pages 263–264.
- ^ a b Gordon Brook-Shepherd. Uncrowned Emperor: the Life and Times of Otto von Habsburg. Continuum International Publishing Group, 2003. ISBN 1852854391. Pages XI, 179, 216.
- ^ a b Lorraine, in Foundation for Medieval Genealogy
- ^ See Chapter XXI.
- ^ William W. Kibler, Grover A. Zinn. Medieval France: an Encyclopedia. Routledge, 1995. ISBN 0824044444. Page 561.
- ^ Encyclopedia of the Middle Ages (ed. by André Vauchez). Routledge, 2000. ISBN 1579582826. Page 1227.
- ^ Robert Knecht. The Valois: Kings of France 1328–1589. Continuum International Publishing Group, 2007. ISBN 1852855223. Page 214.
- ^ Brook-Shepherd also notes that morganatic alliances were not forbidden by ancient Magyar laws. See Brook-Shepherd 179.
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