ロマノフ家の処刑 ロマノフ家の処刑の概要

ロマノフ家の処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 16:16 UTC 版)

概要

ニコライ2世とその家族は、ウラル地区ソビエトの命令により、ヤコフ・ユロフスキーが指揮するボリシェヴィキ軍により殺された。その際遺体は切り裂かれ[1]、焼かれ、コプチャキ街道沿いの森の中にあるガニナ・ヤマ英語版と呼ばれる野原に埋められた[2]

「家族全員がニコライ2世と同じ運命をたどった」との情報を得ていたにもかかわらず[3]ボリシェヴィキはニコライは死んだと報じただけであった[4][5]。ボリシェヴィキの公式な発表は「ニコライの妻と息子は安全な場所に送られた」というものだった[3]。8年を超える年月の間[6] ソビエト指導部は一家の運命に関する組織的なデマ網を維持した[7]。1919年9月からは一家が左翼革命英語版から避難する過程で革命派によって殺害されたと主張し[8]、1922年4月からは一家が死んだことを公然と否定した[7]。ある白系ロシア人による調査が出版された後の1926年、ボリシェヴィキは一家が殺害されたことを認めたが、遺体は損壊されており、レーニン内閣英語版の責任は認められないという立場を維持した[9]ロマノフ僭称者の登場は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国による一家の殺害からメディアの関心を引き離した[7]。1938年からは、ヨシフ・スターリンにより一家の運命についての議論が抑圧された[10]

埋葬地はアマチュア探偵のアレクサンドル・アヴドーニン英語版とボリシェヴィキ出身の両親を持つ映画監督のゲリー・リャボフロシア語版によって1979年に明らかにされたが[11]、一家の遺体はグラスノスチ時代の1989年まで公開されることはなかった[12]。遺体がニコライ2世らのものであることは、法医学的調査やDNA調査により確認された。殺害から80年後の1998年、遺体はサンクトペテルブルク首座使徒ペトル・パウェル大聖堂に再埋葬されたが、その際に行われた葬儀には遺体が本物であることを疑問視するロシア正教会の幹部は出席しなかった[13][14]。2007年、アマチュア考古学者により第二の埋葬地が発見され、一家の埋葬地から発見されていなかったロマノフ家の2人の子供の遺体がそこから見つかった[11]。しかし、2人の遺体は更なるDNA検査の間、国営納骨堂に保管されている[15]。2008年、長期にわたる膨大な法的論争の後で、ロシア連邦検事総長英語版局は、「政治的抑圧の犠牲者」としてロマノフ家の名誉を回復した[16]。1993年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府により一家の処刑は刑事事件として審理されたが、加害者が死亡しているとの見地から誰も起訴されなかった[15]

一部の歴史家は、処刑命令を下したのはモスクワの政権、具体的にはヤーコフ・スヴェルドロフウラジーミル・レーニンであると考えている。レーニンらは、進行中のロシア内戦中において、接近中の(白軍と共にボリシェヴィキと戦う)チェコ軍団により帝室が救出されることを恐れていた[17][18]。処刑への2人の関与はレフ・トロツキーの日記の一節によって裏付けられる[19]。2011年、ウラジーミル・ソロヴィヨフが率いる調査は結論を下し、ソ連崩壊後の時代に政府公文書の公開が行われたにもかかわらず、いまだにレーニンもしくはスヴェルドロフが命令を煽動したことを示す文書は見つかっていないが、2人が処刑後に一家の殺害を事後承認したのは確実だとした[20][21][22][23]。ロマノフ家を厳重な管理下に置いていたにもかかわらず、レーニンは自分の名前がいかなる公式文書においても一家の殺害との関係を示さないよう確実にした[24]ボリス・エリツィン大統領は1998年に行われた一家の国葬で、この殺害はロシア史上最も恥ずべきページの一つであると表明した[25][26]

背景

帝政崩壊からエカテリンブルクでの皇帝一家殺害までにロマノフ家の人々が幽閉された場所の略図

1917年3月22日、もはや君主ではなくなり、歩哨たちから軽蔑とともに「ニコライ・ロマノフ」と呼ばれる立場になったニコライ2世は、ツァールスコエ・セローアレクサンドロフスキー宮殿で家族と再会した。臨時政府により、ニコライは家族や侍従たちとともに自宅軟禁状態に置かれ、一家は宮殿内で監視役の兵士に囲まれつつ幽閉生活を送った[27]

1917年8月、臨時政府首相のアレクサンドル・ケレンスキーは、高まる革命の動乱から一家を保護するという名目で、ロマノフ家をトボリスクに避難させた。そこで一家は元知事の邸宅に住み、かなり快適な生活を送った。1917年10月にボリシェヴィキ権力を握ると、幽閉はしだいに厳格なものになり、ニコライを裁判にかけることも頻繁に議論されるようになった。ニコライは肩章を着用することを禁じられ、歩哨は塀に娘たちの感情を害するような猥褻なスケッチを落書きした。1918年3月1日、一家に与えられるのは兵士への配給品のみになり、家族はバターとコーヒーを諦め、献身的な10人の召し使いとも別れなければならなかった[28]ボリシェヴィキが力を増すにつれ、政府は4月にニコライとアレクサンドラ、娘のマリアをヴァシーリー・ヤコヴレフ英語版の指揮の下、エカテリンブルクに移送した。アレクセイは酷い血友病を患っており、両親と同行することはできず、姉妹のオルガやタチアナ、アナスタシアとともにトボリスクに残った。アレクセイらがトボリスクを離れたのは1918年5月になってからだった。一家は数名の残った家臣とともに「特別な目的の家」(ロシア語: Дом Особого Назначения)と呼ばれるエカテリンブルクのイパチェフ館に幽閉された[29]

逮捕された者はすべて人質として拘束される。そして、この町におけるほんの些細な反革命活動の試みすらも、これらの人質の即決処刑につながる。
エカテリンブルクにおける一家の幽閉を統括したボリシェヴィキの戦争委員フィリップ・ゴロシェキン英語版による地元新聞での発表[30]

「特別な目的の家」

ニコライやアレクサンドラ、マリアが1918年4月30日に到着する直前に建てられた柵に囲われたイパチェフ館。左上部の屋根裏部屋のドーマー窓にはマキシム機関銃が設置されていた。そのすぐ下にはツァーリ夫妻の寝室があった。[31]
1917年5月にアレクサンドル宮殿の家庭菜園で働くニコライ2世とタチアナ、アナスタシア・ヘンドリコヴァ英語版。イパチェフ館での一家にはこのような楽しみは許されなかった[32]
イパチェフ館のあった場所に建てられた血の上の教会英語版(2016年撮影・上部左)。手前に映るヴォズネセンスキー聖堂のベルフライ英語版には、館の南東部のツァーリ夫妻の寝室に照準を合わせた機関銃が置かれていた[33]
ロマノフ家の側近。左から右に:キャサリン・シュナイダー英語版、イリヤ・タチシチョフ伯爵、ピエール・ジリヤール英語版アナスタシア・ヘンドリコヴァ伯爵夫人英語版ヴァシーリー・ドルゴルーコフ公爵英語版。イパチェフ館ではロマノフ家と接触することを禁じられていた。ジリヤール以外の全員が、後にボリシェヴィキに殺された[34]

帝室はイパチェフ館に厳しく隔離されたままであった[35]ロシア語以外の言語を話すことを厳しく禁じられた[36]。内庭の離れ家に置いた手荷物を取りに行くことを禁じられた[35]ブローニーと撮影器具は、没収された[32]。召し使いはロマノフ家を名前と父称でのみ呼ぶよう命じられた[37]。一家は「ウラル地方ソビエト財務官による保管」を理由に金を没収され[38]、所有物の日常的な点検とアレクサンドラや娘の腕から金のブレスレットを奪われるようなことを余儀なくされた[39]。館は館から通りを見辛くする4メートル(14フィート)の高さの二重の柵で囲まれていた[40]。出来合いの塀は、ヴォズネセンスキー通りに沿って庭を封鎖していた。6月5日に館を完全に封鎖する最初のものより高く長い二番目の柵が構築された[41]。二場目の柵が建設された理由の一つは、ニコライが庭の二重のブランコを使う際に外から柵の上にその脚が見えてしまうことが分かった点であった[42]

一家のいる全ての部屋の窓は密閉され、新聞紙で覆われた(後に5月15日にホワイトウォッシュで塗られた)[43]。家族の唯一の換気口は、皇孫の寝室のフォルトチカ英語版であったが、外を見ることは厳しく禁じられ、5月にアナスタシアが覗き見た際には歩哨がアナスタシアに向けて発砲した[44]。繰り返し要請すると、ツァーリ夫妻の角の寝室の窓二つの内の一つが1918年6月23日に覆いの密閉が解かれた[45]。しかしその結果、衛兵は見張りを強化するよう命じられ囚人は銃撃される恐怖と共に窓から顔を出したり外の誰かに合図を送ろうとしないように警告された[46]。この窓から館から通りを隔てたところにあるヴォズネセンスキー大聖堂の尖塔が見えた[46]。鉄製の格子がアレクサンドルが解放した窓に近寄り過ぎないようにとのユロフスキーの度重なる警告を無視すると6月11日に組み込まれた[47]

衛兵司令官や上級の補佐官は、一家のいる部屋全てにいつでも完全に入れた[48]。囚人は風呂や踊り場の洗面所を使おうと部屋を出たい時はいつもベルを鳴らすよう要求された[49]。しかし衛兵が日常的に水が枯渇していると不平を言うと厳格な水の配給が囚人に適用された[50]。レクリエーションは毎日、午前と午後にそれぞれ30分間だけ許された。しかし囚人は衛兵の誰とも口をきいてはならないという厳格な指示を受けていた[51]。配給はほとんどの場合朝食は紅茶と黒パン、昼食はカツレツか肉の入ったスープであり、囚人は「もはやツァーリのように暮らすことはできない」と言い渡された[52]

6月中旬、ノヴォティフヴィンスキー修道会の修道女もほとんどは捕えている人々に掠め取られたが毎日一家の食事を届けた[52]。一家は訪問を受けることや手紙のやり取りを許されなかった[32]。アレクセイの治療にあたるウラジーミル・デレヴェンコ英語版博士の日常的な訪問がユロフスキーが司令官になると制限される一方で、エレナ・ペトロヴナが6月に館を訪れたが、衛兵に銃口を突き付けられて入館を拒否された[53]。近くの教会のミサに出かけることは許されなかった[36]。6月上旬、一家はもはや日刊紙を受け取ることができなくなった[32]

正常な感覚を維持するためにボリシェヴィキは1918年7月13日にロマノフ一家に対し仕える召し使いの内の2人(クレメンティイ・ナゴルーヌイロシア語版(アレクセイの従兵)[54]イヴァン・セドネフロシア語版OTMAの召し使いでレオニード・セドネフの叔父)[55])が「この政権から(例えばエカテリンブルクやペルミの司法管轄区から)送られた」と保証した。しかし2人はボリシェヴィキが5月にイパチェフ館から排除した後に既に死亡しており、白衛軍に殺された地元のボリシェヴィキの英雄ロシア語版が死んだことへの報復として7月6日に他の捕虜の一団と共にチェーカーに射殺された[56]。7月14日、司祭と助祭がロマノフ家のために典礼を執り行った[57]。翌朝4人の女中がポポフ館とイパチェフ館の床を洗うために雇われ、生きた一家の姿を見た最後の市民となった。どちらの場合も一家とは如何なる形でも口をきいてはならないという厳格な指示がなされていた[58]。ユロフスキーは典礼の間や女中が一家と共に寝室を清掃する間、常に監視を続けた[59]

屋内の衛兵16人は、勤務中は地下か廊下、司令官の事務所で寝た。パーヴェル・メドヴェージェフ率いる屋外の衛兵は56人いて、反対のポポフ館に宿をあてがわれた[48]。衛兵はポポフ館やイパチェフ館の地下室に性行為飲み会に女を連れ込むことを許された[59]。機関銃の台座が4か所あった。一つは館に向ける目的でヴォズネセンスキー大聖堂の鐘楼にあり、二つ目は通りに面したイパチェフ館の地下の窓にあり、三つ目は館の裏庭を見渡せるバルコニーを狙い[46]、四つ目はツァーリ夫妻の寝室の上に直接交差点を見渡せる屋根裏部屋にあった[31]。イパチェフ館内と周辺に衛兵が10人配置され、屋外は日夜一時間に2回巡回が行われた[44]。5月上旬、衛兵は囚人からダイニングルームのピアノを取り上げ、ロマノフ家の寝室の隣室にある司令官の事務所に移した。ここで飲んだり煙草をふかしたりしながらロシアの革命歌を歌って夕方に恥をかかせて楽しんだ[35]。没収した蓄音機でロマノフ家のレコードも聴いた[35]。踊り場の洗面所も壁の政治的なスローガンや猥褻な絵画を落書きした衛兵に使われた[35]。一家が殺された時点で衛兵の数は全部で300人となった[60]

ユロフスキーが7月4日に司令官をアレクサンドル・アヴデーエフと交代すると[61]、屋内担当だった衛兵をポポフ館に異動させた。上級の補佐官は維持されたが、玄関を監視するように指示され、ユロフスキー付にのみ認められた栄誉であったロマノフの部屋に出入りすることはもはやできなくなった。配置転換はユロフスキーの依頼によりヴェルフイセツク工場の志願兵大隊から地元のチェーカーにより選ばれて行われた。聞かれたことは全て答えられる献身的なボリシェヴィキが求められた。衛兵は秘密を守ることを誓わされて必要ならツァーリを殺す準備が行われることを理解した上で雇われた。この段階では一家や召し使いを殺すことについて何も言われなかった。アヴデーエフの下で行われた親交英語版の反復を防ぐためにユロフスキーは主に外国人を選んだ。ニコライは7月8日の日記にレッツ(この用語はロシア語起源でなく欧州の誰かを定義するためにロシアで用いられた)と表現しながら「新しいラトビア人が立哨している」と記した。新しい衛兵の指揮官は、リトアニア人のアドルフ・レパに率いられていた[62]

ボリシェヴィキが当初ロマノフ家を裁判にかけたかったことから、エカテリンブルクで赤軍によりロマノフ家は勾留されていた。内戦が続き白軍(反共軍の緩やかな連合軍)がエカテリンブルクを陥落させる恐れがあったため、ロマノフ家が白軍の手に落ちる恐れがあった。このことは二つの理由からボリシェヴィキには受け入れ難いことであった。第一にツァーリや家族の誰かが白軍の運動への支援に結集する象徴となりかねず、第二にツァーリが死ねばその家族の誰かが他の欧州諸国によりロシアの正統な支配者とみなされることであった。このことは白軍のために外国からの大規模な干渉に向けた交渉ができることを意味しかねなかった。

1918年7月半ば、チェコ軍団が既に支配していたシベリア鉄道を守るため、エカテリンブルクに迫っていた。歴史家のデヴィッド・バロックによると、混乱に陥り囚人を処刑したボリシェヴィキは、チェコ軍団は一家を救出する使命を帯びていると誤解した。チェコ軍団は1週間も経たずに到着し、7月25日にエカテリンブルクを陥落させた[63]

帝室一家が6月後半に勾留されている間に、ピョートル・ヴォイコフ英語版とウラル地区ソビエト代表アレクサンドル・ベロボロドフ英語版[64]は、チェーカーの命令で平静を保ちながら一家の救出を求める君主主義者の官吏であると主張するフランス語で書いた手紙の密輸をイパチェフ館に命令した[65]。ロマノフの返答と共に(空白や封筒に書かれた)この偽造された手紙は[66]、モスクワの中央執行委員会英語版(CEC)に帝室を「粛清する」更なる正当化の口実を与えた[67]。後にユロフスキーは偽の手紙に応えることでニコライは「自身を罠に陥れる我々の早まった計画に貶められた」と述べた[65]

7月13日、イパチェフ館から通りを挟んでエカテリンブルク・ソビエトの退去と同市の支配の移転を要求する赤軍兵や社会革命党(エスエル党)、アナーキスト英語版の示威行動がヴォズネセンスキー広場で行われた。この反乱はツァーリ夫妻の寝室の窓で聞こえる所全ての参加者に向けて銃火を開いたピョートル・エルマコフ率いる赤衛軍英語版を派遣することで激しく抑圧された。当局はこの事件をイパチェフ館の囚人の安全に脅威を与える君主主義者の率いる反乱と位置付けた[68]

処刑計画

ウラル地区ソビエトは6月29日の会合でロマノフ家を処刑すべきだと議決した。フィリップ・ゴロシェキンはツァーリの処刑を主張する伝言を携えて7月3日にモスクワに到着した。[69]中央執行委員会の委員23人中7人だけが出席し、そのうちの3人がレーニン、スヴェルドロフ、フェリックス・ジェルジンスキーであった[64]。ウラル地区ソビエトの幹部会英語版は一家の処刑に向けた実際的な詳細を準備し最終認可に向けてモスクワと連絡を取りながら軍事的な状況が許せば実行する正確な日を決定すると議決した[70]

ツァーリの妻と子供の殺害も議論されたがいかなる政治的な反動を引き起こさないためにも秘密を保たなければならず、ドイツのウィルヘルム・フォン・ミルバッハ英語版大使は、一家の健康を憂慮してボリシェヴィキに繰り返し問い合わせを行った[71]。もう1人の外交官イギリスのトーマス・プレストン駐エカテリンブルク領事はイパチェフ館の近くに住み、ピエール・ジリアールやシドニー・ギブス、ヴァシーリー・ドルゴルーコフ公爵英語版から(後に自身もユロフスキーの助手のグリゴリー・ニクーリンに殺される前に監獄から密かに持ち出した後者のメモ[72])ロマノフ家の助命の圧力を受けていた[53]。しかし一家との面会を認めるようにというプレストンの要請は変わることなく拒否された[73]。トロツキーが後に語ったように、一家の死が不可欠であったため「ツァーリ一家は機能的な遺伝とする王統の主要な方向そのものを形成するという理論の犠牲者であった」[74]。一家の死に関することは一切レーニンと直接連絡を取る必要はないとの指令と共にゴロシェキンはモスクワとのロマノフ家に関する議論の概要を携えて7月12日にエカテリンブルクに報告した[64][75]

7月14日、ユロフスキーは埋め立て地と同時に可能な限り多くの証拠を破壊する方法の最終案を作成中であった[76]。処分部隊を担当し辺鄙な田園地方を知っていると主張し、ユロフスキーが信頼を置くピョートル・エルマコフと頻繁に協議していた[77]。ユロフスキーは一家と召し使いを逃げられない極狭い空間に集めたがっていた。この目的で選ばれた地下室は、射撃音や悲鳴さえも押し殺せるように釘付けされた閂で締めた窓があった[78]。就寝中の夜の射撃や殺傷あるいは森で殺害し体に重りとして付けた金属の塊と共にイセットの池に放り込むのは、除外された[79]。ユロフスキーの案は、宝石類のために女性を強姦したり身体を探ることを禁じなければならないことも考慮したが、同時に11人の囚人全員の効率的な処刑を行うというものであった[79]。以前宝石類を押収した際には更に多くの物が衣類に隠されているとにらみ[38]、残りを得る目的で全身を裸にした(脱がすことで持ち主を特定できないようにする目的であった)[80]

7月16日、ユロフスキーはウラル地区ソビエトから赤軍派遣団が全方面で退却していて処刑はもはや引き延ばせないと知らされた。最終的な認可を求める暗号電報が午後6時頃にゴロシェキンとゲオルギー・サファロフからモスクワのレーニンに宛てて送られた[81]。ユロフスキーは進めるようにとの中央執行委員会からの命令が午後7時頃にゴロシェキンから送られたと言い張ったが、モスクワからの返答を証明する記録はない[82]

このことはスヴェルドロフが中央執行委員会名義で「審理」(処刑の暗号)の認可を確認する電報を送るよう、電信室に対して個人的に指揮したと1960年代後半に主張した元クレムリン衛兵アレクセイ・アキーモフの証言と一致するが、書式と受信用紙テープの両方が送られた直後にスヴェルドロフから送り返されるべきだとする強固な指令とも一致する[82]。午後8時、ユーロフスキーは遺体を運ぶために遺体を巻く粗布の巻いたものを運ぶトラックを入手するお抱え運転手を送った。計画は射撃音を隠すために動かすエンジンと共に可能な限り地下の入口に近付けて止めるというものであった[83]。ユロフスキーとパーヴェル・メドヴェージェフは、その夜に使うFN ブローニングM19002丁、アメリカのM19112丁、モーゼルC962丁、スミス&ウェッソン1丁、ナガンM18957丁などの短銃14丁を集めた。ナガンは相当量の煙とガスを発生する黒色火薬で動き、無煙火薬は段階的に用いられているだけであった[84]

司令官の事務所でユロフスキーは拳銃を支給する前に誰が誰を殺すのかを割り振った。エルマコフがナガン3丁、モーゼル1丁、銃剣で武装する一方、ユロフスキーはモーゼルとコルトを選択し、アレクサンドラとボトキンの2人の囚人を殺すことを割り当てられただけであった。レッツの内少なくとも2人、アンドラス・ヴェルハスとレッツ派遣団を担当するアドルフ・レパという名前のオーストリア・ハンガリー軍英語版捕虜は女性の射殺を拒否した。ユロフスキーは2人を「革命的義務における重要な場面で」失敗したとしてポポフ館に送った[85]。「過度に血を流すことなく速やかに得られるように心臓を直接撃つ」よう命じた[86]。ユロフスキーにしても殺害者の誰もが11人の遺体をどのように効率的に損壊するかという後方支援には加わらなかった[75]。残りが後に反共主義の支援を結集する人々を最大限利用しようとする君主主義者に見つからないことを確実にするよう圧力を受けていた[87]


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