ロマノフ家の処刑 処刑

ロマノフ家の処刑

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/04 16:16 UTC 版)

処刑

左から右へ:1917年春にツァールスコエ・セローで捕えられていたマリア、オリガ、アナスタシア、タチアナ。皇帝ニコライ2世の娘の最後の写真の一つ。
ロマノフ一家が殺された地下室。壁は1919年に探索者により銃弾などの証拠の探索で引き剥がされていた。物置につながる二重扉は処刑時は施錠されていた[79]

ロマノフ家が7月16日の夕食をとっている間にユロフスキーは居間に入り、キッチンボーイのレオニード・セドネフがエカテリンブルクに戻った叔父のイヴァン・セドネフに会うために出て行ったと知らせたが、イヴァンは既にチェーカーに射殺されていた[88]。一家はレオニードがアレクセイの唯一の遊び友達で奪われた5番目の随員だと非常に憤慨したが、ユロフスキーから間もなく戻ってくると保証された。アレクサンドラは「本当かどうか。再び会えるのかどうか!」と死の数時間前に日記に書いており、ユロフスキーを信用していなかった。事実、レオニードはその夜はポポフ館にとどめられた[83]。ユロフスキーにレオニードを殺す理由は見いだせず、処刑が行われる前に追い出しておきたかった[81]

1918年7月17日深夜頃、ユロフスキーは一家がエカテリンブルクに危機が切迫しているため、安全な場所に移動するという口実の下、寝ている一家を起こして服を着るようロマノフ家の主治医エフゲニー・ボトキン博士に命じた[89]。ロマノフ家はその際の半地下室(6m×5m)に行くよう命じられた。ニコライはアレクセイとアレクサンドラが座る椅子を2脚持って来られないかと尋ねた[90]。ユロフスキーの助手グリゴリー・ニクーリンは、「相続人は椅子で死にたがっている[91]。好都合なことに一脚与えられる」と意見を述べた[78]。一家を載せるトラックが館に到着するまで囚人は地下室で待つよう言われた。数分後、秘密警察の処刑部隊が到着して、ユロフスキーはウラル・ソビエト執行委員会により発せられた命令を読み上げた。

ニコライ・アレクサンドロヴィチ。あなたの親族がソビエト・ロシアに対する攻撃を継続しているという事実を考慮して、ウラル・ソビエト執行委員会はあなたを処刑することを決定した[92][93]

家族の方を向いていたニコライは振り返り、「何だって。何だって。」と言った[94]。ユロフスキーは早口で命令を繰り返し、皇帝一家に銃口が向けられた。衛兵の回想によると、皇后とオリガは自分たちを祝福しようと試みたが、一斉射撃が始まってしまい果たせなかった。ユロフスキーによると、集められた処刑部隊全員がニコライを標的として胴体に向けて拳銃を発砲したと伝えられ、多くの銃弾が命中したニコライはすぐに死んだ。有頂天になったヴェルフイセツク担当の軍事委員ピョートル・エルマコフ英語版は、アレクサンドラの頭部を撃って射殺した。その際、大腿部を撃たれながら二重扉に向かって走ったマリアも撃ったという[95]。残りの隊員は、最初の一斉射撃に伴う騒音と煙、塵で部屋中が満たされるまで入り乱れて互いの肩越しに射撃を続けた。

アレクセイ・カバノフは音量を確認しに通りに走り出しフィアットのエンジン音は別にして、ロマノフのいる部屋からの犬の鳴き声と射撃音が大きく明瞭に聞こえた。その際、カバノフは階下に急いで降りて射撃をやめ、銃床と銃剣で一家と犬を殺すように衛兵に言った[96]。ユロフスキーは燃え尽きた火薬の煙や天井の埃、耳をつんざくような射撃音に開始からわずか数分で射撃を一旦やめざるを得なくなった。射撃をやめると、煙と塵を拡散させるために地下室の扉が開かれた[94]。煙が少なくなるのを待つ間、処刑部隊は室内の呻き声と泣き声を聞いた。[97]。煙が晴れるとニコライ、アレクサンドラ、召し使いのイヴァン・ハリトーノフ、アレクセイ・トルップが死んでいたが、めちゃくちゃな射撃のせいで一家の子供たちと召し使いの一部は軽傷を負っただけでまだ生きていることが明らかになった[94][98]

処刑時の射撃音は付近の住民に聞こえてしまい、多くの人を起こした。処刑部隊は今度はもっと正確に頭部を狙って射撃し、銃剣で止めをさすよう命令された。数分後に処刑が再開されて、主治医のボトキン博士が射殺された。ボトキンは最初の一斉射撃でロマノフの盾となり瀕死の重傷を負って横たわっていたが頭部を撃たれて死亡した。生き残った子供たちの中ではアレクセイが最初に死亡した。アレクセイは射撃に恐怖したまま椅子に釘付けになっており、彼の下着や略帽には宝石が縫い込まれていた[99]ため、エルマコフに銃剣で何度も突き刺されたが死なずに苦しんでいた。ユロフスキーはエルマコフを横に押しやってアレクセイの頭部を2発撃って射殺した[100]。オリガとタチアナも銃剣で刺されたが、下着に縫い付けてあった宝石によって軽傷を負っただけで生きており、2人は立ち上がって逃げようとしたところにユロフスキーがタチアナの頭部を撃って射殺。その直後にオリガもエルマコフによって射殺された[101][102]。マリアとアナスタシアも負傷していたがまだ生きていた。エルマコフの証言によると、銃剣でマリアを刺したが他の子供たちと同じように服に縫い付けてあった宝石によって保護されていたため、銃で2人の頭部を撃ったという。アレクサンドラの召し使いのアンナ・デミドヴァは、最初の一斉射撃から生き延びたが、宝石類を満たした小さな枕で自分を守ろうとして銃剣で刺殺された[103]。処刑が終わり、遺体を部屋の外へ運び出そうとした時にマリアとアナスタシアは生きている兆候を見せた。マリアは起き上がって腕で顔を覆って泣き叫んだので[104]、エルマコフはアレクサンドル・ストレコティンの小銃を奪い取ってマリアの腰を銃剣で突き刺したが、貫くのに失敗すると拳銃で彼女の頭を撃った[105][106]。また、エルマコフの供述書には書かれていないが、マリアが動かなくなるまで顔を銃剣で刺し続けたとも証言している。暗闇の中のためストレコティンは銃剣で刺された女性をマリア(実際はアナスタシア)と誤認していた可能性がある。[107]また刺した箇所は顔ではなく胸全体である。[108]

アナスタシアは口から血を流しながら呻いて身体を動かしたため、エルマコフが銃剣で刺殺した。なお、ユロフスキーは皇女のどちらか1人が悲鳴を上げ、ライフル銃の台尻部分で後頭部に打撃を加えたと書いている。この場面を語る多くの報告がアナスタシアが最後に死亡したとしている。

ユロフスキーが犠牲者の脈を確認している間、エルマコフは銃剣で遺体を突き刺して回った。処刑は20分ほどで終わり、ユロフスキーは後にニクーリンの「兵器と必然的な神経の貧弱な支配力」を認めている[109]。後世の調査ではこの処刑に70発もの射撃が行われた可能性があると見積もられ、実際に地下室と隣の墓場から銃弾57発が発見された。概ね隊員1人当たり7発が使われた[96]。パーヴェル・メドヴェージェフの担架運搬人英語版の一部は、金目の物を探して身体検査を始めた。ユロフスキーはこの光景を見て略奪した品を渡すか、さもなくば射殺すると言った。略奪の試みに、エルマコフの無能と酔っ払った状態が合わさって、ユロフスキーは自身が遺体の処分を監督せざるを得ないと確信した[106]。アレクセイのスパニエルジョイだけがロシア内戦に介入していたイギリス人将校に救出されて生き残り[110]イングランドのウィンザーで晩年を過ごした[111]

アレクサンドル・ベロボロドフは暗号電報をレーニンの秘書官ニコライ・ゴルブーノフ英語版に送った。電報は白軍の調査官ニコライ・ソコロフにより発見され、下記の通りである[112]

家族全員が皇帝と同様に運命を共にしたことをスヴェルドロフに知らせる。公式には一家は疎開中に死亡したこととする[113]

モスクワからの代理として重要な目撃者だったチェーカーのアレクサンドル・リシツィンは、可能な限り速やかにロシアで出版されるかもしれないニコライやアレクサンドラの政治的に価値ある日記や手紙を処分した後にスヴェルドロフへの急派に任じられた[114]。ベロボロドフとニクーリンはロマノフの部屋の略奪を監視し、一家の個人的な物全てを押収しながら、とるに足らなかったり無価値とみなされた物をストーブに投げ込んで焼却する一方、最も価値あるものをユロフスキーの事務に積み上げた。全てがロマノフ家の持っていたトランクに詰め込まれ、コミッサールの警護の下にモスクワに送られた[115]。7月19日、ボリシェヴィキは没収したロマノフ家の私有財産を全て国有化し[56]、同日スヴェルドロフは人民委員会議にツァーリの処刑を知らせた[116]

処分

1919年のコプチャク街道の枕木。ニコライ・ソコロフ調査官は事実上第二の埋葬場所と気付かずにフィアットのトラックが7月19日午前4時30分に立ち往生した場所の証拠としてこの写真を撮影した[117]
遺体の急ぎの処分でこのトパーズのような所有物数点がユロフスキーの従者に見過ごされ、結局1919年にソコロフにより発見された[8]

ロマノフ家や従者の遺体は、6×10フィートの荷台のある60馬力エンジン搭載のフィアットトラックに積み込まれた[106][104]。大量に積み込んだ車は、コプチャキ街道沿いの森に向かって沼沢性の道を9マイル苦労して進んだ。ユロフスキーは飲んだくれのエルマコフが埋葬にシャベルしか持っていないことに気付くと激怒した[118]。更に半マイルほど進みヴェルフイセツク作業場に向かう通りの185号線との交差点近くでエルマコフのために働く25人が馬と簡単な荷車を持って待っていた。この男たちは全員酔っていて、囚人が生きて運ばれてこなかったことに憤慨した。リンチ集団に加われると思っていて[119]、殺害前に女性をいたぶれると期待していた[120]。ユロフスキーは結局遺体の一部をトラックから荷車に移すことでエルマコフの従者を得て非常に困難な状態における管理を維持した[119]。エルマコフの従者の内の数人が女性の遺体を下着に隠されたダイヤモンドを探して手荒に扱い、2人がアレクサンドラの陰部に指を入れた[120][119]。ユロフスキーは銃口を向けて離れるよう命令し、ツァーリナの死体をいじった2人やその他略奪に関与した者たちを追い払った[120]

トラックはゴルノウラルスク線近くの湿地帯で前進することができなくなった[119]ため、全ての遺体が荷車に降ろされ処分地に運ばれた。荷車が「4人兄弟」と呼ばれる開けた場所にある廃坑が見える場所に来たころには日の出を迎えていた[121]。エルマコフの従者の残りをユロフスキーが信頼せず、酔っ払った状態が不愉快であったために町に戻るよう命じられる一方で、ユロフスキーの従者は、初めて地元の尼僧から提供された固ゆでの卵(帝室一家用の食事)を食べ尽くした[80]。 姉妹の中でマリアだけ宝石がなかったことについてジリヤールは「娘たちは宝石を縫い付けたブラジャーをしていただけでなく、この下着はまさに娘たちがつけていたものであったのだ。マリアがいないときにトボリスクで作られたものだから、そんな下着を着けているはずがない。この下着が誰かに着けられていたと考えるのは無茶な話だ。」と述べている。[122][123] またユロフスキーはこのことを知らないため、彼女について「特別な地位にあったことが確認された」「最初の二人の姉妹とは似ていないし、外見も似ていない。彼女はどこか内向的で、所謂義理の娘として家族の中にいた。」と振り返っている[124][125] 遺体は立て坑に放り込まれ、硫酸を振りかけられた。その際初めて、ユロフスキーは立て坑が3メートル(9フィート)未満の深さであり、その下の濁った水が予想したように十分に死体を覆い隠せないことに気付いた。ユロフスキーは炭鉱を手榴弾で破壊しようとしたが失敗したため、従者が軽く土や枝で覆った[126]。ユロフスキーはベロボロドフとゴロシェキンに報告しに、略奪した18ポンドのダイヤモンドを詰めた鞄を持ってエカテリンブルクに戻る間、この場所を警護する衛兵を残した。立て坑は浅さ過ぎると判断された[127]

地元のソビエトのセルゲイ・チュツカエフロシア語版は、辺鄙で沼地の発見され難い墓場であるエカテリンブルクの西の更に深いとある銅鉱山についてユロフスキーに語った[75]。7月17日夕方にこの場所を点検し、アメリカンスカヤ・ホテルのチェーカーに報告した。石油やケロシン、硫酸の入れ物や大量の乾燥した薪を入手する仕事をピョートル・ヴォイコフ英語版に割り振る一方でコプチャキ街道に送る追加のトラックを注文した。ユロフスキーも新たな場所への遺体の移動に用いる馬が引く荷車数台を確保した[128]。数人のチェーカーの担当者と共にユロフスキーとゴロシェキンは、7月18日午前4時頃に炭鉱に戻った。びしょ濡れの死体は、手足に結んだロープを使って1人ずつ引っ張られタープの下に横たえられていた[127]。深い炭鉱に遺体を運ぶ十分な時間がないかも知れないと憂慮したユロフスキーは、すぐさま別の埋葬の穴を掘るように従者に指示したが、地面は硬過ぎた。チェーカーと相談しにアメリカンスカヤ・ホテルに戻った。新たな炭鉱に埋葬する前に遺体に添えるコンクリートブロックを積み込んだトラックを確保した。二台目のトラックは、死体の移動を手伝うチェーカーの分遣隊を運んだ。ユロフスキーは7月18日午後10時に森に戻った。死体は再びその時までに沼地から救い出されたフィアットトラックに積み込まれた[129]

7月19日の早朝、街から遠い銅山に運ぶ間、フィアットトラックは再びガニナ・ヤマ英語版(豚の牧草地)近くの沼地にはまり込んだ。従者がへとへとになり命令に従うのをほとんどが拒否したため、ユロフスキーはトラックがはまり込んだ道路の下に埋葬することに決めた[130]。幅6×8フィート、僅か60センチメートル(2フィート)の深さの墓を掘った[131]。ツァーリなどの遺体の前にアレクセイ・トルップの遺体が最初に放り込まれた。再び硫酸が浴びせられ、顔は人物の確認ができないように小銃の台尻で粉砕され、酸化カルシウムで覆われた。枕木が墓を隠す目的で墓の上に置かれ、枕木が地面に埋め込まれるまでフィアットトラックは前進と後退を繰り返した。埋葬は7月19日の午前6時に完了した[131]

9人だけの共同墓地を発見したものを混乱させる意図で、ユロフスキーはアレクセイ皇太子と姉妹の1人を15メートル(50フィート)離して埋葬した。この女性の遺体はひどく毀損されたので、報告ではアンナ・デミドヴァと間違えられていた。実際にはアレクサンドラの遺体を損壊したかった[132]。アレクセイと姉妹の1人は焼かれ、残りの黒焦げになった骨は徹底的にで粉砕され、小さい方の穴に放り込まれた[131]。2007年8月に初めて発見される骨の破片44個が残った[133]

ソコロフの調査

1919年春に炭鉱を検査するソコロフ調査官
ニューヨーク州ジョーダンヴィル英語版聖三位一体神学校英語版で展示されているロマノフ家の所有物。右に大公女の1人が所有していたブラウスがある[134]

7月25日にエカテリンブルクが反共の白軍の手に落ちると、アレクサンドル・コルチャーク将軍はその月の末に皇帝一家の殺害を調査するソコロフ委員会を立ち上げた。オムスク地方裁判所調査官ニコライ・ソコロフロシア語版は1919年2月にロマノフの側近の数人(有名なところではピエール・ジリアール英語版やアレクサンドラ・テグレヴァ、シドニー・ギブス英語版)から聴取した[135]

遺体が当初捨てられた炭鉱とその周辺でソコロフはユロフスキーと従者に見落とされた数多くのロマノフ家の所有物や貴重品を発見した。その中には寸断され焼かれた骨の破片や凝固した脂肪[136]、ボトキン博士の上の義歯と眼鏡、コルセット、記章とベルトのバックル、靴、鍵、真珠とダイヤモンド[7]、使用済みの銃弾数個、切断された女性の指の一部があった[137]。アナスタシアのキング・チャールズ・スパニエルの死骸だけが穴の中で見つかった[138]。遺体が炭鉱に投げ込まれる前に犠牲者の衣類全てが焼かれたとのユロフスキーの報告と一致する浅い穴は衣類の痕跡をとどめていなかった[139]。フィアットのトラックが7月19日の朝にはまり込んだ場所の証拠としてこの場所の写真を撮りながらソコロフはコプチャキ街道の秘密の埋葬場所を結局は発見し損なった[117]。その後、ソコロフは1919年7月、ボリシェヴィキの反撃を受け、発見した遺品を入れた箱を持って国外に避難せざるを得なくなった[140]。ソコロフは8巻に及ぶ写真と目撃した報告を集めた[141]。調査を完了する前に1924年にフランス心臓発作で死亡した[142]。箱はブリュッセルイクルの聖ヨブのロシア正教会に保管されている[143]

予備の報告がフランス語と当時のロシア語で同じ年に本として出版され、1989年までの69年間、殺害についての唯一正当とされる歴史的な真相とされた[9]。ソコロフは射撃され刺殺されたアレクセイとアナスタシアを除いて囚人は銃撃で即座に死亡し、遺体は大掛かりなたき火で破壊されたと誤って断定した[144][145]。皇后と子供がツァーリと共に殺害されたと認めながら、調査の公表と世界的な受容は、1926年にソコロフの著作を大いに盗用した政府公認の教科書を発行するようソビエト当局を促した[9]。1938年、ヨシフ・スターリンはロマノフ殺害に関する討論全てを厳格に取り締まらせた[10]。ソコロフの報告も発禁処分となった[117]

イパチェフ館はレオニード・ブレジネフ政権下の政治局により、「十分な歴史的重要性」を備えていないとみなされ、殺害から60年を翌年に控えた1977年9月に取り壊された。エリツィンは後年、備忘録に「早晩この一連の蛮行を恥と感ずるであろう」と書いた。館を取り壊しても巡礼や君主主義者がこの場所を訪れるのを止められなかった[10]

地元のアマチュア探偵アレクサンドル・アヴドーニン英語版とボリシェヴィキ出身の両親を持つ映画監督のゲリー・リャボフロシア語版は、長年の秘密の証拠収集と主要な証拠研究を終えると1979年5月30日から31日にかけて浅い墓を発見した[10][117]。三つの頭蓋骨が墓から持ち出されたが、検査を助ける科学者や研究所を見つけるのに失敗し、墓を発見したことで起きることについて憂慮したアヴドーニンとリャボフは、1980年の夏に再埋葬した[146]ミハイル・ゴルバチョフ書記長によるグラスノスチ(開放)とペレストロイカ(改革)の時代になると、リャボフはアヴドーニンの杞憂をよそに1989年4月10日にモスクワ・ニュースにロマノフの墓所を明かした[146][147]。残りはソビエト当局者により1991年に発掘されたが、大急ぎで行われた「公式の発掘」のため、貴重な証拠を破壊しこの場所を台無しにした。

遺体に着衣はなく受けた損傷が激しいため、サンクトペテルブルクでアナスタシアのものと鑑定された残りの骨格が、本当にアナスタシアのものなのか、あるいはマリアのものか、論争が続いた。実際に森で発見された骨が完全にロマノフ家のものかについてロシア正教会内で相当な意見の相違があった。聖教会裁判所英語版はペトロパヴロフスク要塞に埋葬する1998年2月の政府の決定に反対し、信頼性が確実になるまで「象徴的な」墓に収めることを好んだ[148]。その結果、1998年7月に埋葬されるとき、帝室というよりは「革命によるキリスト教被害者」としてお勤めを行う司祭により言及された[149]

2007年7月29日、別の地元の愛好家団体がコプチャキ街道の主な墓から遠くない二つの小さなたき火の痕にあるアレクセイや姉妹の残したものを含む小さな穴を発見した[150][12]。犯罪捜査官や遺伝学者がアレクセイとマリアと断定したが、「徹底的で詳細な」検査を要求する教会の決定まで国立公文書館に保管されたままである[151][133]


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