マレーシアの歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/23 02:40 UTC 版)
戦争とマラヤ危機
- 1941年 日本軍がコタバル近郊に上陸 (マレー作戦)。太平洋戦争の開戦。
- 1942年 日本軍がマラヤ(日本占領時期のマラヤ)及び北ボルネオ(日本占領時期のイギリス領ボルネオ)全域を占領。クダ王国はシャムの占領下、その他の地域は日本軍の軍政下に入る。
- 1945年 太平洋戦争の終結に伴い、マラヤ・北ボルネオがイギリスの支配下に復帰。
- 1946年 イギリスがマラヤに有するクダ・シンガポール以外の植民地の集合体としてマラヤ連合が発足。北ボルネオのサラワク王国がイギリス領サラワクになる。
- 1948年マラヤ連合の再編とクダ王国の加入によってマラヤ連邦が発足。連邦発足直後からマラヤ危機が発生 (1948年 – 1960年)。
- 1957年 マラヤ連邦 (初代国王トゥアンク・アブドゥル・ラーマン、初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン) が独立。
「マレーシア」の成立
- 1962年 - 1966年 インドネシアとマレーシアの対立。
- 1963年 シンガポール、イギリス保護国北ボルネオ、イギリス領サラワクがマラヤ連邦と統合し、マレーシアが成立。
- 1965年 シンガポールがマレーシアから追放される形で分離独立。
- 1968年 - 1989年 共産主義者の反乱。
- 1969年 5月10日、1969年総選挙実施。5月13日、マレーシア史上最悪の民族衝突であるマレー人と中国人の間の衝突5月13日事件が起きる。
- 1970年 7月緊急条例発布。9月、ラーマン首相辞任。第2代首相にアブドゥル・ラザク就任。
- 1974年 クアラルンプールを連邦の首都に定める。
- 1981年 マハティール首相就任 ( - 2003年)
マハティール・ビン・モハマド期 1981-2003
マハティール・ビン・モハマドが1981年から2003年までの間、マレーシアの首相を務めた時期は国の歴史上重要な時代だった。彼は国内外で大きな影響力を持ち、国家の発展に重要な役割を果たした。
まず第一に、マハティール政権はマレーシアの経済発展を大きく推進した。産業政策や経済政策の改革を通じて、国内の経済成長を促進し、新たな産業の育成や外国からの直接投資の拡大を図った。これにより、マレーシアは急速な経済成長を遂げ、アジア太平洋地域での経済的な重要性を高めることに成功した。
第二に、マハティール政権は国内のインフラ整備にも力を入れた。道路や橋、空港、港湾などのインフラストラクチャーの整備や改善を通じて、国内の物流や交通の効率化を図り、経済活動の促進に貢献した。
さらに、マハティール政権は教育分野でも改革を推進した。教育制度の近代化や高等教育機関の整備、技術教育の充実などを通じて、国内の人材育成に注力し、人材の質の向上を図った。
このように、マハティール時代は、マレーシアの経済成長や社会変革に大きな影響を与えた時期であり、彼のリーダーシップの下で国が大きく前進した時代と言える。
東方政策
1981年、マハティールは日本や韓国の労働倫理、経済哲学や日本の成功の経験などを学ぶことによって、自国の社会経済の発展を目指す構想を提唱した。この構想は「東方政策(the Look East Policy)」と呼ばれ、1982年からマレーシア政府は日本への留学生及び研修生の派遣を開始。これまでに約14,000人のマレーシア人が日本で学んだ。日本とマレーシアは緊密な友好関係を築いてきましたが、中でも東方政策によって両国の人的交流及び相互理解が深まり、両国の間に強い絆が培われた[2]。
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