ベトナムに平和を!市民連合 主な活動

ベトナムに平和を!市民連合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 00:17 UTC 版)

主な活動

デモと「反戦広告」

1967年10月3日に行われた反戦デモ

発足直後の1965年4月に東京駐日アメリカ合衆国大使館へのデモ行進を行ったのを始まりに、アメリカ政府アメリカ軍日本政府を断罪する多くのデモを行ったほか、同年11月には作家の開高健の発案でアメリカの有力紙の1つである『ニューヨーク・タイムズ』への全面での「反戦広告」を掲載、1967年4月には画家岡本太郎・筆の「殺すな」と大書された文字の下に英文のメッセージをデザインした反戦広告を『ワシントン・ポスト』に掲載するなど、その活動規模も運営資金も既成の「市民運動」の枠を大きく超えたものであった。

そのため既存の左翼・市民運動勢力から「文化人のベトナム遊び」と批判を受けるが、一方で少年雑誌の『ボーイズライフ』に大きく取り上げられたり、「穏健な反戦運動だから」と既存の左翼・市民運動とは敵対する立場の警察官や自衛官からの寄付もあり、反戦運動に関心を持つ人々の裾野を広げることとなった[22]。また、アメリカ国内の反戦運動団体とも連帯を形作った。

一方で、デモの規模が大きくなると参加者の一部が過激な行動をとるようになり、1969年10月21日の反戦デーに合わせたデモでは道路にバリケードを築く行為などが行われた。東京都公安委員会は、このことなどを理由に同年11月16日に予定されていた佐藤首相訪米抗議デモの申請を不許可としている[23]

脱走兵支援活動

航空母艦「イントレピッド」から脱走した4人(1967年)
鶴見俊輔小田実(1967年11月13日)
ベ平連が米兵に向けて発したメッセージ

小田ら運動の中核となった少数の幹部は、違法な手段を使いアメリカ軍の「良心的脱走兵」の逃走支援を行った。これらの活動はベ平連とは別に「JATEC(Japan Technical Committee to Aid Anti War GIs反戦脱走米兵援助日本技術委員会)」として運営された。

1967年10月17日、アメリカ海軍エセックス級航空母艦イントレピッド」が横須賀海軍施設に入港。停泊中にマイケル・アンソニー・リンドナー、クレイグ・W・アンダーソン、リチャード・D・ベイリー、ジョン・マイケル・バリラの4人が脱走した。同月、ベ平連は4人を引き受ける。

同年11月13日、代表の小田実、鶴見俊輔、事務局長の吉川勇一、栗原幸夫小中陽太郎らは神田一ツ橋の学士会館で会見を開き、4人が脱走したと明かした。また、4人が声明を述べる約20分のインタビュー映画「イントレピッドの4人」を上映した[24][25]。横須賀海軍施設も同日、脱走事実を認めた[26]

ベ平連は4人を横浜港でソ連極東部のウラジオストックへ向かうソ連の定期船に違法に乗船させ、モスクワ経由でスウェーデンに入国させた。ここから「イントレピッド4人の会」が結成され、さらに脱走を援助する組織として「JATEC」が武藤一羊により命名された。4人は本国では「Intrepid Four」と呼ばれた。栗原幸夫が指令役になり、吉岡忍山口文憲阿奈井文彦などの若手メンバーが実動役を請け負った。

だが、1968年にアメリカの情報機関の工作員であるラッシュ・ジョンソンが脱走兵のふりをして侵入したことにより(“ジョンソン”が本名だったのか、また所属機関は今も不明[27])、同行して釧路に飛んだ脱走兵のジェラルド・メイヤーズが、11月5日に日本の警察に逮捕され、アメリカ海軍に引き渡された。メイヤーズの乗ったレンタカーを運転していた山口文憲は、自宅で見せたモデルガンを本物の銃と誤認したメイヤーズの供述により、翌1969年2月15日、銃刀法違反容疑で逮捕された(当時はモデルガンの第一次規制前で、のち釈放)[注 3]。また、メイヤーズが隠れていた高橋武智宅も家宅捜索をうけた。

JATECが正規の出国手続きを踏まない形での国外逃亡幇助など、日米法体系上の盲点を脱法行為も伴う手段を用いて日本から脱走兵を秘密裏に出国させたものの、その数は数人に留まり、多くの脱走兵はアメリカ軍へ帰還した[28]。1968年2月15日の「山口逮捕、高橋宅捜査」以降、JATECは方針を変更し、高橋武智をリーダーとして「脱走兵の国内潜行援助」、パンフレット『脱走兵通信』『ジャテック通信』による宣伝活動、そして在日アメリカ軍基地周辺での「反戦GI運動支援」活動を行った。

一株株主運動

1971年、防衛産業の象徴とされる三菱重工に対し、「反戦一株株主運動」を大々的に組織。11月30日の株主総会に際し、約250名でデモ行進後[29]、会場に入場するが、三菱重工側は約500名の総会屋と右翼を動員し「反戦株主」に対応[30]

他にこの年は南ベトナムに進出することを発表したソニーなどに対し「日本の再侵略を許すな」とデモを行った[31]。1973年になると九州電力など、南ベトナムに進出していない企業へ対しても直接行動を起こす[32] など、反戦運動以外にも反公害・反開発的といった包括的な左翼市民運動に移行していった。


注釈

  1. ^ グループは「誰デモ入れる市民の列」として現存する。
  2. ^ 杉山茂丸の孫の杉山龍丸が、「玄洋社国際部長」の肩書きで、ベ平連結成時の呼びかけ人の一人となっている。ベトナムに平和を!市民連合編『資料・「ベ平連」運動 上巻』河出書房新社、1974年。ただし吉川勇一によると、「杉山さんは、ベ平連の後半では、ベ平連への批判的態度をもつようになったようだ」という[15]
  3. ^ 日米地位協定第9条は、脱走兵についての日本の国内法の適用除外を定めている。そのため、「脱走兵の逃亡幇助」を行っても日本の法律には触れず、このような「別件逮捕」しかなされない由縁である。ただし、活動を始めた時点で関係者はそのことを理解してはおらず、「違法行為をやっている」という自覚があった。また、下記のように、逃亡幇助を行う中で日本の法律に触れる行為を複数行っている。

出典

  1. ^ a b c 「知の巨人たち」 第2回 ひとびとの哲学を見つめて~鶴見俊輔と「思想の科学」~(2014年7月12日放送)”. NHK. 2019年7月8日閲覧。
  2. ^ a b 『資料「ベ平連」運動』上巻, pp. 513–514.
  3. ^ a b 歴史の十字路に立って: 戦後七十年の回顧 - 86p.石原慎太郎 - 2015 -
  4. ^ a b 1.Exploiting the KGB's secret contact with the leaders of the Japanese committee "Peace to Vietnam," assist the committee to continue its activities including material support when needed to expand its propaganda activity and to accomplish illegal transportation of American military deserters from Japan to third countries.2. The KGB should inform the secretary of the committee "Peace to Vietnam" YOSHIKAWA, that the Soviet Union cannot at this time permit the illegal transportation of Americans to the territory of the USSR using Soviet means of conveyance.(英訳版原文)
  5. ^ 岡山 2014, pp. 90–92
  6. ^ レフチェンコ 1984
  7. ^ 岩垂弘「声なき声:2 市民が次々と列に」『朝日新聞』1988年6月14日付夕刊、3面。
  8. ^ 小林トミ著、岩垂弘編『「声なき声」をきけ―反戦市民運動の原点』同時代社、2003年6月2日、24頁。 
  9. ^ 岩垂弘「声なき声:1 反安保デモに合流」 『朝日新聞』1988年6月13日付夕刊、3面。
  10. ^ a b 『資料「ベ平連」運動』上巻.
  11. ^ 『資料「ベ平連」運動』上巻, p. 5.
  12. ^ 『資料「ベ平連」運動』上巻, p. 10.
  13. ^ 『資料「ベ平連」運動』上巻, p. 6.
  14. ^ 松井隆志. “1960年代と「ベ兵連」”. 法政大学大原社会問題研究所. 2022年4月24日閲覧。
  15. ^ ベ平連への批判的文献
  16. ^ a b インタビュー ベ平連の経験と共同行動の論理”. JCA-NET. 2022年4月24日閲覧。
  17. ^ 松井隆志 (2016). “1960 年代と『ベ平連』”. 法政大学大原社会問題研究所雑誌 697: 2. 
  18. ^ 歴史の十字路に立って: 戦後七十年の回顧 - 92 ページ . 石原慎太郎 - 2015 -
  19. ^ 吉川勇一 (2007). “べ平連の経験と共同行動の論理”. 季刊 運動(経験) 23号: 46. 
  20. ^ 歴史の十字路に立って: 戦後七十年の回顧 - 97ページ 石原慎太郎 - 2015 -
  21. ^ 鶴見良行私論(11)│庄野 護”. nansenhokubasha.com. 2022年3月21日閲覧。
  22. ^ a b 組織か個人か=べ平連から学んだこと=
  23. ^ ベ平連デモ全面不許可 都公安委『朝日新聞』昭和44年(1969年)11月14日夕刊、3版、1面
  24. ^ 大野光明、関谷滋. “ベ平連運動の時代から現在へ”. 立命館大学. 2023年7月27日閲覧。
  25. ^ 岩垂弘. “もの書きを目指す人びとへ―わが体験的マスコミ論― 第2部 社会部記者の現場から”. Econfn. 2023年7月27日閲覧。
  26. ^ 「北爆に反対し米兵四人脱走」 『中日新聞』1967年11月14日付朝刊、11版、15面。
  27. ^ a b c 最近文献76春名幹男『秘密のファイル』下”. 旧「ベ平連」運動の情報ページ (2003年10月29日). 2011年4月24日閲覧。
  28. ^ 高橋武智『私たちは、脱走アメリカ兵を越境させた…ベ平連/ジャテック、最後の密出国作戦の回想』作品社、2007年11月。ISBN 978-4-86182-162-2 
  29. ^ 死の商人を表すドクロの御面をかぶるデモ隊
  30. ^ 緊急リポート『総会屋』
  31. ^ ベ平連年表 1971年
  32. ^ ベ平連年表 1973年
  33. ^ Koenker, Diane P., and Ronald D. Bachman (ed.), Revelations from the Russian archives : Documents in English Translation, Washington, D.C. : Library of Congress, 1997, pp699-700.
  34. ^ 「67年の横須賀から米兵4人亡命事件に、ソ連政府が関与--本社、秘密文書を入手」毎日新聞 1995.07.20[出典無効]
  35. ^ 不破哲三『日本共産党にたいする干渉と内通の記録――ソ連共産党秘密文書から 上』119頁
  36. ^ 吉川勇一「略歴」





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