ブーゲンビル島沖海戦 参加兵力

ブーゲンビル島沖海戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/10 05:40 UTC 版)

参加兵力

日本海軍

  • 連合襲撃部隊(大森仙太郎少将)[39]
    • 本隊(大森少将直率):重巡洋艦妙高、羽黒
    • 第一警戒隊(伊集院松治少将):軽巡洋艦川内、駆逐艦時雨、五月雨、白露
    • 第二警戒隊(大杉守一少将):軽巡洋艦阿賀野、駆逐艦長波初風若月
  • 輸送隊(山代勝守大佐):駆逐艦天霧、文月、卯月、夕凪、水無月(水無月はブカ島行[39]

アメリカ海軍

戦果

  • 日本海軍の損害[72]
沈没:川内、初風
損傷:妙高(衝突による)、羽黒、五月雨(衝突による)、白露(衝突による)
  • アメリカ海軍の損害(海戦後の空襲によるモントピリアの損傷は除く)
沈没:なし
損傷:デンバー、フート、スペンス(衝突と被弾)、サッチャー(衝突による)

本海戦は日本側の完敗(連合国軍輸送船団撃滅失敗、海戦による損傷沈没艦比較)であった[73]。それでも日本側は、「重巡洋艦1隻轟沈、同2隻魚雷命中撃沈確実、大型駆逐艦2隻轟沈、重巡あるいは大型駆逐艦1隻魚雷命中撃沈確実、駆逐艦1隻同士討ちで損傷、重巡1ないし2隻および駆逐艦に命中弾」といった戦果判断をしていた[74]。日本重巡には従軍記者が乗艦しており、大巡3隻ふくめ6隻撃沈と報道している[4]大本営発表でも前述と同程度の戦果を報じ、日本側の損害は「駆逐艦1隻沈没、巡洋艦1隻小破」とした[8]。また、第二十七駆逐隊司令原為一大佐は「巡洋艦1隻轟沈、同2隻撃破、駆逐艦1隻轟沈、同1隻撃破」という判断であった[75]。いずれにせよ実際の戦果とは相当な開きがあり、タロキナへの基地建設阻止および輸送船団撃滅は失敗した。この海戦後、大森少将は「拙劣な戦闘の実施に憤慨した(連合艦隊司令長官古賀提督[60]により、11月25日付で第五戦隊司令官を解任されて海軍水雷学校長に左遷となり、11月30日に退任した[76]

海戦における連合襲撃部隊の戦闘については、開戦直後から批判の的であった。第三艦隊の長井純隆首席参謀は、当時もっとも批判されていた事として「戦闘隊形が複雑であったため、運動の自由がなかったこと」を挙げている[67]。アメリカ軍(および指揮官メリル少将)の積極的な指揮と行動に対し、日本軍の指揮は稚拙かつ消極的であった[73]。時雨が00時49分に敵艦隊発見を報じてから、主隊(妙高、羽黒)が砲撃を開始したのは26分後の01時16分である[73]。第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)がアメリカ軍に対し苦戦する20分以上の間、主隊(妙高、羽黒)と第十戦隊(阿賀野、長波、初風、若月)は遊兵化してなんら支援行動を起こさず、適切な戦闘指導もなかった[73]。 第五戦隊による電探射撃についても羽黒の元砲術長と第五戦隊首席参謀の間で見解が分かれている[67]。 モントピリア乗組だったジェームズ・J・フェーイーは「あの海戦で日本軍はレーダーを使っていたにちがいない。あれほど砲撃が正確だったのだから。それに照明弾もすばらしくて、あたりを昼間のように明るくした。魚雷発射も熟練の腕だったが、不発もあった。もし魚雷全部が有効だったら、僕は生きてこれを書いてなんかいられなかった。僕らに命中したのみたいに、中には不発があるのだ」と回想している[77]。モントピリアには魚雷が2本命中していたものの、2本とも爆発していなかった[78]

ネルソン式の全滅戦闘」[45]を採らず「攻撃部隊を単に撃退する」[45]という使命を果たした第39任務部隊であったが、全ての戦闘がうまくいったわけではなかった。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年の回顧で、メリル少将の失敗としてレーダー射撃の精度と目標配分の点がマイナスであったと指摘した[60]。また、海戦においては第46駆逐群の行動が味方に少なからぬ混乱を与えていた。第46駆逐群は海戦当時、第39任務部隊に編入されたばかりで訓練の機会がなく[3]、海戦では巡洋艦群の射線方向に入り込んで射撃を阻害し[51]、前述のようにフートが巡洋艦群の前を横切ったため、デンバーがフートに衝突しかけるというアクシデントもあった[51]。ニミッツ元帥によれば、メリル少将が「戦術上の教義と、その実行が適切であった」という[60]。本海戦における勝敗の決定的な原因は「指揮官の差」にあったという意見もある[73]。メリル少将と第39任務部隊は、“ザ・スロット”と呼ばれたニュージョージア海峡で艦を一隻も失わなかった唯一の提督と艦隊として名声を高めた[79]

ラバウルに接近中の栗田健男中将率いる、第39任務部隊よりもはるかに強力であるとみられた日本艦隊出現の報により、アメリカ軍は新たに起こった緊急事態に極めて迅速に対応しなければならなかった[80][81]。 日本軍は栗田艦隊を増援として、挺身輸送隊(第十戦隊司令官:若月《旗艦》、風雲、天霧、文月、卯月、夕凪)、護衛艦隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将:愛宕、高雄、摩耶、鳥海、能代等)による挺身上陸作戦を予定していた[82]。 米軍の二隻の空母(プリンストン、サラトガ)は新手の艦隊をブーゲンビル島に近づけさせないよう、5日にラバウルを空襲し、攻撃を受けたラバウルの日本艦隊は第二艦隊を中心にほとんどがトラック泊地へとあっさり逃げ帰っていった。

11月6日、日本海軍はタロキナ逆上陸作戦を開始[83]、第一支援隊(阿賀野、若月、風雲、浦風)・第二支援隊(能代、大波、長波)・挺身輸送隊(大波、巻波、天霧、文月、卯月、夕凪)がラバウルを出撃した。 揚陸作戦そのものは成功したが逆上陸した部隊は陸戦で敗退した[84]

陸上からは歩兵第23連隊による第一次タロキナ作戦が行われたがこちらも敗北し、後退した。




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  77. ^ ジェームズ・J・フェーイー(著)/三方洋子(訳)『太平洋戦争アメリカ水兵日記』76ページ
  78. ^ #フェーイーp.72
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  80. ^ #ニミッツ、ポッターp.185
  81. ^ #ポッターp.412
  82. ^ 戦史叢書96ガ島撤収後397-398頁『ラバウル進出と逆上陸計画との絡み合い』
  83. ^ 戦史叢書58巻、194-196頁「第二劍部隊の再度出撃」
  84. ^ 戦史叢書58巻、196-198頁「逆上陸戦闘の実相」






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