ピコ・デラ・ミランドラ ピコ・デラ・ミランドラの概要

ピコ・デラ・ミランドラ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/08/24 14:44 UTC 版)

ピーコ・デッラ・ミランドラ

生涯

北イタリア・ミランドラの領主、ピーコ家(it:Pico (famiglia))ジャン・フランチェスコ・ピーコ1世の子として生まれた[3]ボローニャ大学で法律を、パドヴァ大学教会法を学んだのち各地で研鑽を積み、フィレンツェへ行き、哲学者として高名なマルシリオ・フィチーノと接した。若くして才能を発揮し、プラトンギリシャ語で、旧約聖書をヘブライ語で読んだ。博識で弁が立ち、メディチ家プラトン・アカデミーの中心的な人物の1人になった。

人間は小さな宇宙であり、その中には元素から動植物、理性、神の似姿に至るまでが含まれると考え、人間が動物と異なるのは、自由意志によって何者にも(神のようにも獣のようにも)なることができる点だとして、「人間の尊厳」を主張した[4]1486年、ローマで哲学・神学の討論会を企画し、討論会のために書いた原稿が『人間の尊厳について』 (Oratio De Dignitate hominis) で、ピーコの主著である。ただしこの題名はピーコ自身の命名ではない。

この討論会では聖体変化などについての議論も予定しており、ローマ教皇インノケンティウス8世から異端の疑いをかけられ、討論会は中止。ピーコも逃亡後、捕えられてしまうが、メディチ家のロレンツォ・デ・メディチの努力により釈放され、フィレンツェに戻る。ジローラモ・サヴォナローラとも親交があった。31歳で死去。

フィチーノと同様、近年は異教的な神秘主義の側面が注目されている。自然を支配する業としての魔術を信じていたが、占星術については、人間の運命が定められているというのは人間の自由意志に反する、として反対するようになり、師フィチーノの説を批判した『反占星術論』を執筆している。また非ユダヤ人としては、はじめてカバラを極めたとされる。

著書

Opera omnia, 1601
  • 『人間の尊厳について』 植田敏郎訳、創元社、1950年
  • 「人間の尊厳についての演説」- 『ルネサンスの人間論 原典翻訳集』佐藤三夫訳編、有信堂高文社、1984年1月。 
  • 『人間の尊厳について』大出哲・安部包・伊藤博明訳、国文社〈アウロラ叢書〉、1985年11月。 

  1. ^ ピコ・デラ・ミランドラ』 - コトバンク
  2. ^ ヤマザキマリ『ヤマザキマリの偏愛ルネサンス美術論』集英社、2015年、51頁。ISBN 978-4-08-720815-3 
  3. ^ Marek, Miroslav. “Genealogy.eu”. 2008年3月9日閲覧。
  4. ^ ペーテル・エクベリ『おおきく考えよう 人生に役立つ哲学入門』晶文社、2017年、25頁。ISBN 978-4-7949-6975-0 


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