ノイハウス (オーステ)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/01 02:14 UTC 版)
紋章 | 地図 (郡の位置) |
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基本情報 | |
連邦州: | ニーダーザクセン州 |
郡: | クックスハーフェン郡 |
ザムトゲマインデ: | ザムトゲマインデ・ラント・ハーデルン |
緯度経度: | 北緯53度48分 東経09度02分 / 北緯53.800度 東経9.033度座標: 北緯53度48分 東経09度02分 / 北緯53.800度 東経9.033度 |
標高: | 海抜 2 m |
面積: | 9.85 km2 |
人口: | |
人口密度: | 111 人/km2 |
郵便番号: | 21785 |
市外局番: | 04752 |
ナンバープレート: | CUX |
自治体コード: |
03 3 52 039 |
行政庁舎の住所: | Marktstraße 21, 21762 Otterndorf |
ウェブサイト: | Samtgemeinde Land Hadeln - Gemeinde Neuhaus |
首長: | ウード・ミールチュ (Udo Miertsch) |
郡内の位置 | |
地図 | |
ノイハウス(ドイツ語: Neuhaus、低地ドイツ語: Neehuus)は、ドイツ連邦共和国ニーダーザクセン州クックスハーフェン郡ザムトゲマインデ・ラント・ハーデルンに属すフレッケン[訳注 1] である。この町は、オーステ川の河口に位置している。
地理
位置
ノイハウスは、エルベ川下流域のクックスハーフェン郡に位置し、ザムトゲマインデ・ラント・ハーデルンに属す。ノイハウスは、クックスハーフェンの南東、シュターデおよびハンブルクの北西に位置する。隣接する町村は、東から南はカーデンベルゲ、南西はビュルカウ、西はベルムである。
水域
オーステ湖
オーステ湖は、オーステ川の古い川筋で、ノイハウスから約 3 km の距離にある。1967年にオーステ堰が建設され、オーステ川は迂回した。この湖は、水上スキー施設やレジャーパークを有する釣り、サーフィン、水浴のリゾートとなっている。湖の北側、29ヘクタール中約 5 ヘクタールは自然保護地域であり、立ち入りが禁止されている。
川および水路
- オーステ川はエルベ川下流域最大の支流である。
- ノイハウス=ビュルカウアー水路(オプラー水路とも呼ばれる)は全長 12 kmでバルク湖からノイハウス (オーステ)まで流れて、ここでオーステ川に合流する。この水路は湿地やバルク湖の排水に用いられている。ビュルカウ、オペルンおよびヴィングスト・オプラー・パストール・コッパーといった低い場所の住民たちは、その建設に精力的に取り組んだ。この水路は1852年から1854年に、ビュルカウの小高い集落に住む住民が資金調達を理由に反対したのに抗して建設された。ノイハウスの水門はエルベ川からの潮水の逆流を防いだ。高潮時のこの機能は現在、オーステ堰に引き継がれている。
- アウエ川は、細い小川であるが、19世紀にノイハウス=ビュルカウアー水路が建設されるまで、ノイハウス (オーステ)、ビュルカウからバルク湖に至る流域面積 5000ヘクタールに及ぶ地域の唯一の排水路であった。この川は、全長約 20 km で、蛇行を繰り返しながら、オペルン、ビュルカウ、ケーディングブルーフ、ノイハウス (オーステ) と流れ、ここでオーステ川に合流する。
歴史
最初の入植
入植は、紀元100年頃にアウエ川、オーステ川、エルベ川周辺の盛り土がなされた場所で始まった。現在のノイハウスダイヒおよびダイヒ通りも当時盛り土がなされた場所の1つである。1100年に、現在ノイハウス集落の西に位置するビュルスドルフが Bulcenthorp として文献に記録されている。
ますこの付近にブレーメン大司教によって城砦が建設された。このシックブルク城(Slikborch)はアウエ川がオーステ川に注ぐ合流点に建設された。この城は大司教のフォークト(代官)の所在地となった。この城は1371年から1389年まで文書によってその存在が証明されている。しかし無能な君主アルベルト大司教は常に資金不足であり、ブレーメン、シュターデ、ブクステフーデといった都市に対する借金の担保とされた。その後この城は、ブレーメン大司教の支配を防ぐためにケーディンゲンとハーデルンの住民によって破壊された。
1400年から1800年まで
1404年にオッター2世大司教は、アウエ川右岸に Nygehus(=新しい家)という名の新しい城砦を築いた。これによりノイハウスが初めて文献に記録された。この城も近隣の住民によって1420年に破壊された。Nyehus は、Brug(城砦)と記述されてはいるが、エルベ=ヴェーザー地方の他の城砦と同様に、それは防御柵と水堀を巡らせた、木材とレンガで造られたやや大きな木組み建築に過ぎなかった。周辺の湿地の住民たちは、1423年に正式に同盟を結んだ。この同盟は、ビュルカウ教区、オペルン教区、ベルム教区、ビュルスドルフ教区とラント・ケーディンゲン全域を取り囲んでいた。この時初めて「キルヒシュピール」(ドイツ語: Kirchspiel) という記述がされている。キルヒシュピール・ビュルスドルフに教会があったかどうかは証明できないが、想像することも困難である。教会は15世紀に破壊されたと考えることもできる。この頃教会組織がケーディングブルーフに編入されているからである。
大司教バルドゥイン2世は、激昂したマルシュの住民に対して前任者がケーディンゲン住民の脅威となる砦を建設することはしないと約束したにもかかわらず、1435年に「城館」と呼ばれる建物を建設した。この建物は村の中央のアウエ川沿いに建設されており、城館であったか城砦であったかは議論の余地がある。この城は、15世紀および16世紀にハーデルン、ヴルストナー、ケーディンゲンの住民によってたびたび破壊され、18世紀以降再建されることはなかった。かつての城山は現在大きな戦争記念碑を持つ城館公園に囲まれ、その跡をはっきりと識別することができる。
様々な戦闘が伝えられているが、ラント・ビュルカウ周辺で最も重要な戦いは、キルヒシュピール・ビュルカウ、オッペルン、ケーディングブルーフ、ベルムがその自由を求めてブレーメン大司教クリストフ・フォン・ブラウンシュヴァイクおよびその支援者とハーデルナー・ラントで戦った戦闘であった。ハーデルンの領主ザクセン=ラウエンブルク公マグヌスは、キルヒシュピールの試みを支援した。こうした支援にもかかわらず、大司教はラント・ビュルカウを征服することに成功した。1516年に反抗したキルヒシュピールの課税に関する協定が大司教とザクセン=ラウエンブルク公との間で締結された。これは懲罰ではなく、古い協定の復活に過ぎなかった。しかし公はこの協定を遵守せず、大司教領およびノイハウス城を荒らし回った。この城は速やかに復興されたが、大司教は常に資金不足で、大司教領のいくつかの部分を借金の担保にしなければならなかった。1540年頃、ノイハウス城とそこから得られる収入のすべてが、4000グルデンの借金と引き換えにヨハン・フォン・ミュンヒハウゼンに抵当に入れられた。特別税によって1544年にはこの借金は返済されたが、シュマルカルデン戦争により1547年6月9日にプロテスタントの司令官マンスフェルト伯アルブレヒトによって戦闘することなく占領された。およそ1年後にブレーメン大司教軍がこの城館を再び占領した。
この城館は、ブレーメン大司教の最も重要な前線基地の1つであった。その力を強化するために、この城はアムト・ノイハウス[訳注 2] の行政本部となり、大司教の官僚(初めはフォークト、その後アムトマンあるいはドロステと称した)が配属され、中世のあらゆる反抗に耐え抜いた。地域の境界は、北は北海、東はラント・ケーディンゲンおよびキルヒシュピール・オーステン、南はベルデ・ラムシュテット、西はラント・ハーデルンであった。ここには以下の各教区が含まれた: キルヒシュピール・ベルム、ビュルカウ、カーデンベルゲ、ゲーファースドルフ、ケーディングブルーフ、オーベルンドルフ、オッペルン。
戦略上重要で、そのために紛争の元となるオーステ川河口の境界に近いベルム砦に隣接しているため、ノイハウスで穏やかな時代が始まったのは17世紀末になってからであった。
街道: 1847年にシュターデからリッツェビュッテル(現在はクックスハーフェン市内)までの郵便路が完成された。これは、現在の連邦道 B73号線の前身である。それ以前は週に2便か3便程度であった郵便馬車が、毎日走行できるようになった。1850年頃にはカーデンベルゲとオッテルンドルフが結ばれた。マルシェン街道は多額の経費をかけて建設され、維持された。1860年頃にゲーファースドルフを経由してフライブルク/エルベへの街道が加わり、1871年頃にイッツェンビュッテルやケーディングスブルーフを経由してビュルカウへの街道が整備された。
鉄道: 1872年にアムト・ノイハウスと、クックスハーフェナー鉄道・蒸気船・港湾会社 AG との間で、1900 m 区間の路線と駅を建設するためにノイハウスが10万ターラーを出資する案に関する書簡が交わされた。しかし実際にはカーデンベルゲとオッテルンドルフとの区間が建設されただけで、ノイハウスからは 2.5 km 離れていた。この路線は、1881年11月11日に営業が開始された。
1853年以降、夏には週に3便蒸気船ライゼンデがハンブルクからノイハウスに運航し、ここからはさらにハドラー・ラントへ馬車が通じていた。
18世紀にノイハウスは行政の中心地となった。1740年から宿駅が設けられた。ノイハウス港はこの地域で最も重要な交易ハブの1つとなった。当時は水上交通の方が陸上交通よりも容易であったため、この港が旅の出発点となった。
1853年の首長言行録に「ハノーファーのアムト、エルベ川河口沿いのブレーメン公領ラントドロスタイ(代官区)・シュターデは人口12,500人。アムト所在地はオーステ川沿いの市場町にある。この町は美しく造られており、税関、税務署、および2つの埠頭を持つ港を持ち、住民は商売、造船、水運、漁業、農業、赤なめしおよび白なめし、リネンおよびウール織りを主な生業としており、人口は1,520人である」と、記されている[2]。
堤防建設
大きな集落の成立は、1478年のオーステ川の堤防建設によって可能となった。堤防建設のために既存の盛り土の土地が利用され、アウエ川に2つの水門が設けられた。ここには農民、荘園管理人、小作農だけでなく、すぐに船乗り、漁師、商人、職人も住むようになり、フレッケン・ノイハウスに都市型社会が形成された。当時オーステ川は、大司教の居館があったブレーマーフェルデへの最速ルートであった。ノイハウスは、1502年に税関所在地として拡充された。
16世紀末、集落の代表者は「ビュルガーマイスター」(現代ドイツ語の市町村長にあたる語)を称するようになった。1645年から1681年までノイハウスの領主権は、スウェーデン王のレーエンとしてケーニヒスマルク家が有していた。
1717年と1825年の高潮
北海沿岸への激烈な高潮はノイハウスにも被害を及ぼした。1717年のクリスマスの高潮はオーステ川堤防の多くの箇所に損傷を与えた。その結果ミューレおよびフィンケンヘルネ周辺地域が水没し、11棟の家屋と5棟の付属建造物が破壊され、24人が溺死した。遺体は、数ヶ月後にやっと発見されたものもあった。12月30日になっても教会は水の中であった。アムト・ノイハウスでは、馬 557頭、有角家畜(ウシ、ヤギなど)2,254頭、豚 929頭、羊 1413頭が死んだ。周辺が肥沃な湿地に正常化するまで10年を要した。
1825年2月3日から4日の高潮は、1棟の納屋を破壊し、数棟の家屋を毀損しただけであった。ノイハウス住民は近隣の教区の住民を援助した。援助協会が設立され、商人のヴォルフとウーレックスが際だった働きをした。この協会は、533帝国ターラー、3 2/3グーター・グローシェのお金と衣類や食料を援助した。
19世紀のコレラ
ノイハウスでは、2回コレラの流行があった。1回目の1834年9月には18人が死亡し、2回目はちょうど25年後の1859年8月28日から9月20日までに有名な牧師を含む17人が死亡した。ノイハウス=ブルカウアー水路の建設でノイハウスの水はけが改善されたことにより、その後コレラの流行は起こらなくなった。アムツホーフと、かつてのノイハウスの幹線道路であった郵便街道との間に「ポッゲナウエ」という名前の汚水用の溝があり、これが後に水路(運河)の原型として利用された。この運河は、さらなる交通量の増加をこのアムトにもたらした。数十年間にわたって、近隣で生産されたビート、ジャガイモ、その他の製品がこの運河を使って運ばれた。しかし、この運河のより重要な目的は、バルク湖およびオッペルンやビュルカウの湿地の排水であった。
- ^ Landesamt für Statistik Niedersachsen, LSN-Online Regionaldatenbank, Tabelle A100001G: Fortschreibung des Bevölkerungsstandes, Stand 31. Dezember 2021
- ^ Meyers-Conversations-Lexikon, 1853
- ^ “Themenbereich: Bevölkerung - Tabellen”. Landesamt für Statistik Niedersachsen. 2019年8月16日閲覧。
- ^ Gottfried Kiesow et. al (1977). Handbuch der deutschen Kunstdenkmäler Teil: Bremen, Niedersachsen. Berlin / München: Dt. Kunstverl. ISBN 978-3-422-00348-4
- ^ “KDO-Wahlpräsentation - Gesamtergebnis Gemeinderatswahl Neuhaus (Oste) 11.09.2016”. 2019年8月20日閲覧。
- ^ “Niedersächsisches Kommunalverfassungsgesetz (NKomVG) Vom 17. Dezember 2010, § 46 Zahl der Abgeordneten”. 2019年8月5日閲覧。
- ^ “Niedersächsisches Kommunalverfassungsgesetz (NKomVG) Vom 17. Dezember 2010, § 47 Wahl und Wahlperiode der Abgeordneten”. 2019年8月5日閲覧。
- ^ “Die Gemeinde Neuhaus (Oste)” 2022年10月16日閲覧。
- ^ Rudolf Lembcke (1976). Kreis Land Hadeln. ed. Kreis Land Hadeln. Geschichte und Gegenwart. Otterndorf: Buchdruckerei Günter Hottendorff. p. 49
- ^ Rudolf Lembcke; Wilhelm Lenz; Gert Schlechtriem, et al (1981). Männer vom Morgenstern. ed. Neuhaus (Oste)
- ^ “Neuhaus (Oste) - Wappen - Heraldry of the World”. 2019年8月20日閲覧。
- ^ “G.F. Ulex Nachfolger”. 2019年8月20日閲覧。
- 1 ノイハウス (オーステ)とは
- 2 ノイハウス (オーステ)の概要
- 3 住民
- 4 行政
- 5 関連図書
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