ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ) 関連出版物

ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 15:22 UTC 版)

関連出版物

1998年発行のアルメニア切手

注釈

  1. ^ 幼い頃のダイアナは祖父アルバートオールソープ英語版邸へ行くのが怖かったという。自分の方をじっと見ているように見える先祖の肖像画がかかった薄暗い廊下など、幽霊が出てきそうな雰囲気の場所が多数あったためという。また祖父と父エドワードの関係が悪かったのでダイアナは祖父を怖がっていたという[2]
  2. ^ 第二次世界大戦中の英国首相ウィンストン・スペンサー=チャーチル第7代マールバラ公爵の三男ランドルフ卿の息子である。ダイアナとチャーチルの関係はスペンサー家の項目参照。
  3. ^ コリン・キャンベル英語版は、ダイアナがチャールズ皇太子に嫁ぐうえで最も重要な役割を果たしたのは、この母方の祖母ルースであるとしている[7]
  4. ^ この頃にダイアナや彼女の家族が考えていたダイアナの結婚相手はチャールズ皇太子の弟であるアンドリュー王子だったという。彼とダイアナは年齢が近かったし、パークハウスでの幼少期にダイアナは王室のサンドリンガム邸に招かれた際、よく彼と一緒に遊んだためである[30]
  5. ^ Oレベル試験とは、標準(Ordinary)レベルの全国試験のことである。イギリスでは義務教育終了前の15歳から16歳ぐらいの子が7科目から10科目この試験を受けるのが一般的である。優秀な成績を収めた子は更にAレベル試験を受験する。ダイアナはOレベル試験を二度受験しているが、二度とも全科目不合格になっている。全科目落ちるというのは劣等生の中でも極めて珍しいことである。しかも二度目の受験ではダイアナは4科目しか受けなかったが、それでも全部不合格だった[31]
  6. ^ この早期帰国についてホームシックにかかったとか、異性問題を起こしたとか様々な噂を呼んだが、同校の校長ハイジ・ヤルセンは「ダイアナははじめから一学期しか登録していなかったのです。楽しくやってましたからホームシックなんてとんでもありません。ユーモアのセンスで人気があり、友達がたくさんいました。シャイではありませんでした。どちらかというと控え目でしたが、誰とでもうまくやっていけました」と証言している。またこの学校でダイアナの同級生だったイギリス人女性ソフィー・キンブルも「イギリスから来た生徒は大抵数カ月しかいませんでした。為替レートは恐ろしいほどでとても高くついたから」と証言している(当時のイギリスは厳格な外国為替規制を行っていた)[35]
  7. ^ ダイアナはほとんどの場合匿名で働いており、彼女の雇い主は彼女をスペンサー伯爵家の令嬢とは知らなかったようである[41]
  8. ^ 王室報道担当官は事実無根として同紙にこの記事の撤回を要求したが、当時同紙は捏造記事であることを否認して撤回を拒否した。しかしお召し列車の警備にあたっていた警察官にダイアナの姿を目撃した者はなく、現在ではこの記事の関係者全員が捏造記事だったことを認めている[55]
  9. ^ 数少ない反対者はマウントバッテン卿の孫ブラボーン卿英語版夫人ペニーであった。ペニーによれば、この頃ダイアナは「もし、うまいことプリンセス・オブ・ウェールズになれたら」といった表現をしていたと言い、それを聞いたペニーはダイアナは舞台のオーディションでも受けているような感覚で、皇太子妃になることの重要性を理解していないと感じたという[60]
  10. ^ ダイアナはオルソープ邸にいた頃、何もやることがなくてストレスがたまると通りすがった使用人を捕まえて(誰も通りすがらなかったら台所へ行って)おしゃべりをした。貴族の邸宅ではそれでよくてもバッキンガム宮殿ではそれは通用しなかった。バッキンガム宮殿内は全てが身分で動いており、その分をわきまえることが何よりも重要だった。ダイアナも皇太子の近侍からそのことを注意され、ダイアナが台所へ行こうとしても使用人から「ここから先は手前どもの領分、そこから先が妃殿下の領分です」と立ち入りを断られた。また元来勉強が苦手なダイアナは王室史などロイヤルファミリー向けの帝王学を嫌がっていたという[63]
  11. ^ 皇太子はカミラとは親しい友人だが、それ以上の関係ではないことをダイアナに説明したが、ダイアナは信じなかったという[64]
  12. ^ 女王との同居生活で特にダイアナが嫌がっていたのが、毎晩開かれる女王の晩餐会だった。晩餐会は客の顔ぶれや話題にもよるが、大抵は1時間から2時間かけてゆっくり行われる。食事の終了を決めるのは女王であり、それまでは誰も席を立つことは許されない。皇太子はそれに慣れていたが、ダイアナはこれまで早々に食事を済ませて自分のやりたいことをする生活を送ってきたため、我慢できなかった。またこのような場でのダイアナは大体の場合、皇太子と切り離され、自分と接点のない立派な男性二人に挟まれる。ダイアナは自分より頭のよさそうな人間と話してボロを出し、女王の前で馬鹿げたことを口走ってしまう事態を恐れていたため、こういう場では大抵沈黙していた。ダイアナはかつてのルームメイトに送った手紙の中で「ここでは私は完全に場違いのような感じがします。ときどき、いったい私はどうしてこんな羽目になっちゃったんだろうと思うことがあります。とても肩身が狭くて、寂しくて、無力な気がします」と吐露している[81]
  13. ^ ケンジントン宮殿は環境省が管理し、王室が貸している屋敷の集合体である。女王の裁量で貸し出され、主に親戚や廷臣、友人などが入居する。賃料は払わなくてよいが、女王が立ち退きを命じれば直ちに出て行かねばならない[84]
  14. ^ 皇太子に仕えたスティーヴン・バリーによれば1981年12月にダイアナが皇太子の書斎に入って来て、気分が悪いのでどこにも行かないで側にいてほしいと皇太子にお願いしたことがあるという。それに対して皇太子は医者を呼ぶから横になっているよう言ったが、ダイアナは医者など必要ない、貴方が側にいてくれればいいと食い下がった。皇太子は公務があるからでかけなければならないと穏やかに説得したが、ダイアナはそれに怒り心頭になり、「公務?貴方の頭の中にあるのは、クソ忌々しい公務だけなのね。そろそろ私のことを考えて下さってもいい頃だわ。卑しくも私は貴方の妻なのですから」とわめいて部屋を飛び出してしまったという。それを見た皇太子は首を振りながら足元を見つめていたという。何も言わなかったが、深刻な顔をしていたという[89]
  15. ^ ダイアナは皇太子の側近たちが自分から皇太子を遠ざけていると思い込んでいた。
    そのため、皇太子個人秘書(Private Secretary to the Prince of Wales)のエドワード・アディーン英語版や皇太子近侍のスティーヴン・バリー、皇太子個人秘書補佐でダイアナ個人秘書となったオリバー・エヴェレット英語版、執事のアラン・フィッシャー、王子二人の乳母バーバラ・バーンズ、警護のポール・オフィサー警部やジョン・マクリーン警部補などの使用人たちが次々とダイアナの不興を買って辞職・解雇に追い込まれていったという[90][91]。ただしダイアナ自身は「どの解雇も私のせいではない」と主張している[92]
  16. ^ ダイアナの自傷行為は1988年まで続いたという。1988年から専門医による治療を受け、その症状は回復したという[94]
  17. ^ しかしダイアナによればチャールズ皇太子は二番目の子は女の子を欲しがっており、生まれたのが男子と知ると「何だ男か。しかも赤茶色の髪じゃないか」と述べたという。ダイアナは「(この時に)私の中で何かが死んだの」と主張している[102]
  18. ^ 特に1991年6月にラドグローブ校英語版でウィリアム王子がクラスメイトからゴルフクラブで頭を打たれて頭蓋骨に小さな陥没ができる負傷をして病院に担ぎ込まれた際にそれは最高潮に達した。この時、皇太子は少し病院に寄っただけですぐに公務に戻ったためである(医者から両親揃って待合室で待つほど深刻ではないと言われたからだったが)。これについて『ザ・サン』は「それでも父親?」という皇太子批判記事を掲載している[111][112]
  19. ^ この家族4人そろってのスキー旅行は皇太子が希望し、当初ダイアナが反対して揉めたが、皇太子の熱心な訴えで実現した[113]
  20. ^ 慰謝料の金額は離婚時の合意により秘匿されており、1700万ポンドという金額はマスコミの推定である[141]
  21. ^ 妃殿下(HRH)の敬称は法的な根拠はないが、君主の縁者であることを意味しており、君主の判断で与えられたり、剥奪されたりする。この敬称を維持することで今後も国事に関わることや未来の国王の母であることを示すことができた[146]。ダイアナの弁護士ミシュコン卿英語版も離婚交渉に際して彼女の妃殿下の敬称を守ることを最重要視していた[147]
  22. ^ この時に売却されたダイアナのドレスの数は79着。うち5着は日本の法人が落札している(小学館が3着、ミネルヴァ学園が2着)[150]
  23. ^ 一方リビアが暗殺したとする陰謀説もある。それによればアルファイド家にはもともとハロッズやハウス・オブ・フレーザーを買い取れるほどの金はないはずで、それができたのはリビア政府がバックにいたからだという(そのためイギリス政府は頑なにモハメドにイギリス市民権を与えないのだという)。そしてモハメドが収入をリビアに還元しなくなったため、見せしめのためドディはリビアによって消されたという。この陰謀説によればターゲットはダイアナではなかったことになる[228]
  24. ^ フランス警察の調査の結果、この白いフィアットに乗っていたのはレ・バン・タンというベトナム人であることが判明した。彼が現場から離れたのは移民だったため、警察沙汰に巻き込まれるのを嫌がったというだけだった[235]
  25. ^ 調査の結果、ポールが運転を制御できなくなったのはトンネルに入る前からであることが判明した。また「衝突の前にフラッシュがあった」と証言しているのはフランシス・レビという男だったが、この男は前科が多数あり、虚言癖があることで有名な人物で証人としての信憑性に乏しいことも明らかになった[235]
  26. ^ ブレーメン発祥のベアリング財閥の一門出身で、初代レヴェルストーク男爵エドワード・ベアリングの娘
  27. ^ アメリカの実業家株式仲買人のフランクリン・H・ワークの娘

出典

  1. ^ ダイアナ元妃がプリンセスになるまでのフォトアルバム18選”. ELLEgirl (2017年8月8日). 2020年12月27日閲覧。
  2. ^ a b モートン 1997, p. 119.
  3. ^ モートン 1997, pp. 116, 118, 120.
  4. ^ キャンベル 1998, pp. 13, 26–27.
  5. ^ 海保眞夫『イギリスの大貴族』平凡社平凡社新書020〉、1999年10月、14-21頁。ISBN 978-4-5828-5020-8 
  6. ^ キャンベル 1998, pp. 17–21.
  7. ^ キャンベル 1998, p. 19.
  8. ^ モートン 1997, p. 117.
  9. ^ キャンベル 1998, pp. 13–14.
  10. ^ デイビス 1992, p. 39.
  11. ^ モートン 1997, pp. 118–121.
  12. ^ モートン 1997, pp. 122–124.
  13. ^ キャンベル 1992, pp. 35–36, 38.
  14. ^ モートン 1997, pp. 124–129.
  15. ^ キャンベル 1998, pp. 31–36.
  16. ^ キャンベル 1998, pp. 37–38.
  17. ^ モートン 1997, pp. 135–137.
  18. ^ キャンベル 1998, pp. 38, 42.
  19. ^ モートン 1997, pp. 138–144.
  20. ^ モートン 1997, p. 142.
  21. ^ a b モートン 1997, pp. 142–143.
  22. ^ 石井 2000, pp. 201–202.
  23. ^ キャンベル 1992, p. 53.
  24. ^ モートン 1997, p. 144.
  25. ^ キャンベル 1992, pp. 55–58.
  26. ^ モートン 1997, pp. 147–148.
  27. ^ キャンベル 1992, pp. 59, 62–63.
  28. ^ モートン 1997, pp. 152–153.
  29. ^ a b ディンブルビー 1995, p. 17.
  30. ^ キャンベル 1998, pp. 23–24.
  31. ^ デイビス 1992, pp. 61, 67.
  32. ^ キャンベル 1998, p. 53.
  33. ^ モートン 1997, p. 150.
  34. ^ デイビス 1992, p. 177.
  35. ^ キャンベル 1998, pp. 53, 55.
  36. ^ キャンベル 1992, pp. 65–66.
  37. ^ モートン 1997, p. 155.
  38. ^ デイビス 1992, p. 70.
  39. ^ モートン 1997, p. 157.
  40. ^ デイビス 1992, pp. 70–71.
  41. ^ デイビス 1992, p. 71.
  42. ^ a b モートン 1997, pp. 160–161.
  43. ^ キャンベル 1998, p. 56.
  44. ^ デイビス 1992, pp. 74–75.
  45. ^ モートン 1997, pp. 162–164, 167.
  46. ^ デイビス 1992, pp. 71–72.
  47. ^ デイビス 1992, pp. 94–98.
  48. ^ 君塚 2020, p.139.
  49. ^ モートン 1997, pp. 169–172.
  50. ^ 君塚 2020, pp.139-140.
  51. ^ デイビス 1992, pp. 113–114.
  52. ^ モートン 1997, pp. 175–176.
  53. ^ デイビス 1992, p. 115.
  54. ^ デイビス 1992, p. 116.
  55. ^ デイビス 1992, pp. 118–119.
  56. ^ モートン 1997, p. 180.
  57. ^ デイビス 1992, pp. 117–119.
  58. ^ モートン 1997, pp. 181–182.
  59. ^ ディンブルビー 1995, pp. 19–20.
  60. ^ ディンブルビー 1995, p. 20.
  61. ^ モートン 1997, pp. 184–185.
  62. ^ モートン 1997, pp. 187–188.
  63. ^ キャンベル 1992, pp. 168–169.
  64. ^ ディンブルビー 1995, p. 25.
  65. ^ ディンブルビー 1995, pp. 22–23.
  66. ^ モートン 1997, pp. 189–198, 200.
  67. ^ モートン 1997, p. 195.
  68. ^ デイビス 1992, pp. 137–138.
  69. ^ a b デイビス 1992, pp. 140–141.
  70. ^ 君塚 2020, p.142.
  71. ^ 君塚 2020, p.142.
  72. ^ 君塚 2020, p.142.
  73. ^ チャールズ皇太子ご結婚(衛星中継) - NHKクロニクル
  74. ^ モートン 1997, pp. 198–200.
  75. ^ キャンベル 1992, pp. 180–185.
  76. ^ デイビス 1992, pp. 141–146.
  77. ^ キャンベル 1992, pp. 187–191.
  78. ^ デイビス 1992, p. 152.
  79. ^ モートン 1997, p. 204.
  80. ^ デイビス 1992, pp. 155–157.
  81. ^ デイビス 1992, pp. 155–156.
  82. ^ モートン 1997, pp. 204–206, 215–216.
  83. ^ デイビス 1992, pp. 159–160.
  84. ^ キャンベル 1992, p. 207.
  85. ^ デイビス 1992, p. 207.
  86. ^ a b デイビス 1992, p. 162.
  87. ^ デイビス 1992, pp. 161–162, 194–195, 207.
  88. ^ キャンベル 1992, pp. 194–197.
  89. ^ デイビス 1992, pp. 164–165.
  90. ^ デイビス 1992, pp. 161–162, 165–166, 175–198.
  91. ^ キャンベル 1992, pp. 232–235.
  92. ^ モートン 1997, p. 221.
  93. ^ ディンブルビー 1995, p. 66.
  94. ^ 林直樹『よくわかる境界性パーソナリティ障害』主婦の友社〈セレクトBOOKS〉、2011年7月29日、12頁。ISBN 978-4-0727-8965-0 
  95. ^ デイビス 1992, pp. 162–163.
  96. ^ デイビス 1992, p. 194.
  97. ^ ディンブルビー 1995, pp. 42–43.
  98. ^ キャンベル 1992, pp. 235–240.
  99. ^ キャンベル 1998, p. 149.
  100. ^ 君塚 2020, p.145.
  101. ^ キャンベル 1992, pp. 240–244.
  102. ^ モートン 1997, p. 230.
  103. ^ キャンベル 1992, pp. 257–260.
  104. ^ デイビス 1992, p. 365.
  105. ^ a b モートン 1997, p. 290.
  106. ^ デイビス 1992, p. 366.
  107. ^ キャンベル 1992, pp. 273–275.
  108. ^ ディンブルビー 1995, pp. 124–129.
  109. ^ モートン 1997, pp. 292–293.
  110. ^ デイビス 1992, pp. 321–337, 366.
  111. ^ ディンブルビー 1995, pp. 188–189.
  112. ^ モートン 1997, pp. 287–289.
  113. ^ ディンブルビー 1995, p. 191.
  114. ^ モートン 1997, pp. 291–292.
  115. ^ ディンブルビー 1995, pp. 191–192.
  116. ^ 君塚 2020, p.169.
  117. ^ ディンブルビー 1995, pp. 192–198.
  118. ^ キャンベル 1992, p. 293.
  119. ^ モートン 1997, p. 369.
  120. ^ ディンブルビー 1995, p. 203.
  121. ^ 君塚 2020, p.173.
  122. ^ モートン 1997, p. 373.
  123. ^ モートン 1997, pp. 381–382.
  124. ^ モートン 1997, pp. 383–384.
  125. ^ モートン 1997, pp. 402–403.
  126. ^ キャンベル 1998, p. 306.
  127. ^ 渡辺 2013, pp. 160–161.
  128. ^ モートン 1997, pp. 407–408.
  129. ^ キャンベル 1998, p. 331.
  130. ^ 渡辺 2013, p. 117.
  131. ^ モートン 1997, p. 408.
  132. ^ a b キャンベル 1998, p. 332.
  133. ^ 渡辺 2013, p. 122.
  134. ^ 渡辺 2013, pp. 117–124.
  135. ^ キャンベル 1998, p. 333.
  136. ^ 君塚 2020, p.174.
  137. ^ 渡辺 2013, p. 125.
  138. ^ モートン 1997, p. 409.
  139. ^ キャンベル 1998, pp. 338–340.
  140. ^ モートン 1997, pp. 409–410.
  141. ^ a b 渡辺 2013, p. 131.
  142. ^ a b c d キャンベル 1998, p. 341.
  143. ^ モートン 1997, p. 410.
  144. ^ モートン 1997, p. 411.
  145. ^ a b 渡辺 2013, p. 133.
  146. ^ ブラウン 2011, p. 313.
  147. ^ モートン 1997, p. 405.
  148. ^ モートン 1997, pp. 410–411.
  149. ^ モートン 1997, pp. 418, 420.
  150. ^ 宮北 & 平林 2009, p. 278.
  151. ^ 渡辺 2013, pp. 24–25.
  152. ^ 渡辺 2013, pp. 18–23.
  153. ^ モートン 1997, pp. 426–427.
  154. ^ 渡辺 2013, pp. 161–162.
  155. ^ モートン 1997, pp. 428–431.
  156. ^ 渡辺 2013, pp. 161–163.
  157. ^ 渡辺 2013, pp. 22–23.
  158. ^ a b モートン 1997, p. 438.
  159. ^ ダイアナ元妃の死から10年、その人生に関わった重要人物たちのその後とは?”. AFPBB News. クリエイティヴ・リンク (2007年8月31日). 2023年7月11日閲覧。
  160. ^ Martyn Gregory Diana: The Last Days, Random House, 2010, p.70
  161. ^ モートン 1997, pp. 441–442.
  162. ^ Sephton, Connor (2017年8月28日). “Trevor Rees-Jones: What happened to the sole survivor of Diana's crash”. Sky News. 2023年7月11日閲覧。
  163. ^ モートン 1997, pp. 442–443.
  164. ^ 渡辺 2013, pp. 31–35.
  165. ^ モートン 1997, pp. 443–444.
  166. ^ 渡辺 2013, p. 42.
  167. ^ モートン 1997, pp. 445–447.
  168. ^ モートン 1997, pp. 446–447.
  169. ^ モートン 1997, pp. 450–451.
  170. ^ 渡辺 2013, pp. 47–49.
  171. ^ キャンベル 1998, pp. 421–423.
  172. ^ モートン 1997, p. 452.
  173. ^ 渡辺 2013, p. 51.
  174. ^ 宮北 & 平林 2009, p. 279.
  175. ^ 渡辺 2013, p. 177.
  176. ^ 渡辺 2013, pp. 178–183.
  177. ^ a b 宮北 & 平林 2009, p. 282.
  178. ^ 渡辺 2013, pp. 183–185.
  179. ^ デイビス 1992, p. 19.
  180. ^ 渡辺 2013, p. 40.
  181. ^ 渡辺 2013, p. 50.
  182. ^ 石井 2000, pp. 200–201.
  183. ^ “映画「ダイアナ」 オリバー・ヒルシュビーゲル監督 とても魅力的な女性の普遍的な愛の物語”. 産経新聞. (2013年10月18日). オリジナルの2013年10月25日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131025113645/http://sankei.jp.msn.com/entertainments/news/131018/ent13101808040003-n1.htm 2013年11月18日閲覧。 
  184. ^ モートン 1997, p. 331.
  185. ^ a b モートン 1997, pp. 420–421.
  186. ^ 石井 2000, p. 7.
  187. ^ 石井 2000, pp. 7–8.
  188. ^ キャンベル 1998, pp. 39–40.
  189. ^ キャンベル 1998, pp. 111–119.
  190. ^ キャンベル 1998, p. 119.
  191. ^ 石井 2000, p. 199.
  192. ^ キャンベル 1998, pp. 94–95.
  193. ^ 石井 2000, pp. 10–12.
  194. ^ 石井 2000, p. 13.
  195. ^ 渡辺 2013, p. 121.
  196. ^ キャンベル 1998, pp. 191–192.
  197. ^ 石井 2000, pp. 14–15, 203.
  198. ^ キャンベル 1998, pp. 345–346.
  199. ^ モートン 1997, p. 455.
  200. ^ キャンベル 1992, pp. 248–249.
  201. ^ デイビス 1992, p. 275.
  202. ^ デイビス 1992, p. 301.
  203. ^ デイビス 1992, pp. 275–276.
  204. ^ デイビス 1992, p. 277.
  205. ^ デイビス 1992, p. 292.
  206. ^ キャンベル 1992, pp. 250–251.
  207. ^ Great Britons 1-10”. BBC via Wayback Machine. 2004年2月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年8月1日閲覧。
  208. ^ “生き返って欲しい有名人、1位はダイアナ元妃=米調査”. ロイター通信. (2013年9月4日). http://jp.reuters.com/article/entertainmentNews/idJPTYE98300A20130904 2013年11月17日閲覧。 
  209. ^ キャンベル 1998, p. 92.
  210. ^ 渡辺 2013, p. 191.
  211. ^ 君塚直隆『チャールズ皇太子の地球環境戦略』勁草書房、2013年7月10日、163頁。ISBN 978-4-3262-4843-8 
  212. ^ 『全記録 日本の6日間』 1986, 「テレビ欄」.
  213. ^ 渡辺 2013, p. 200.
  214. ^ a b c d e 『全記録 日本の6日間』 1986, p. 50.
  215. ^ 渡辺 2013, pp. 200–201.
  216. ^ 渡辺 2013, p. 202.
  217. ^ 『全記録 日本の6日間』 1986, pp. 15–19, 50.
  218. ^ 渡辺 2013, pp. 200–202.
  219. ^ 渡辺 2013, pp. 202–203.
  220. ^ 渡辺 2013, pp. 198–199.
  221. ^ 渡辺 2013, p. 199.
  222. ^ 『全記録 日本の6日間』 1986, pp. 36, 50.
  223. ^ 『全記録 日本の6日間』 1986, pp. 39, 50.
  224. ^ 『全記録 日本の6日間』 1986, pp. 8, 50.
  225. ^ 渡辺 2013, p. 203.
  226. ^ a b “ダイアナ元妃の死は「おぜん立てされた」 ロンドン警視庁の新情報「英特殊部隊関与」”. 産経新聞. (2013年8月19日). オリジナルの2013年8月20日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20130820141423/http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130819/crm13081908440000-n1.htm 2013年8月31日閲覧。 
  227. ^ ブラウン 2011, p. 377.
  228. ^ キャンベル 1998, pp. 434–435.
  229. ^ キャンベル 1998, p. 430.
  230. ^ ブラウン 2011, pp. 377–379.
  231. ^ アーロノビッチ 2011, p. 300.
  232. ^ キャンベル 1998, p. 429.
  233. ^ キャンベル 1998, p. 407.
  234. ^ ブラウン 2011, p. 381.
  235. ^ a b ブラウン 2011, p. 380.
  236. ^ アーロノビッチ 2011, pp. 273–274, 299–303.
  237. ^ “ダイアナ元妃暗殺説を否定 証拠なしとロンドン警視庁”. 産経新聞. (2013年12月17日). オリジナルの2013年12月17日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20131217124514/http://sankei.jp.msn.com/world/news/131217/erp13121720450005-n1.htm 2013年12月22日閲覧。 





英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)」の関連用語

ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのダイアナ (プリンセス・オブ・ウェールズ) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS