オール与党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/27 07:41 UTC 版)
国会でのオール与党
なお、80年代以降、国会においても国会対策委員長会談が共産党を排除して行われ、法案採決や日程について他の全ての政党の間で調整が図られ、「表で対立、裏では協調」という国対政治が進められていた。共産党を除いた全党が賛成に回る法案も多数存在する。そのため国会についてもオール与党であると共産党は指摘している。無論、共産党を含めた「全会一致」で可決される法案も多数存在する。
1999年の自自公連立発足後は、日本共産党の書記局長も他党の幹事長と同列に参加するようになり、共産党排除は解消された。2007年には、読売新聞グループ本社会長兼主筆渡辺恒雄の呼びかけにより、ねじれ国会となっていた中央政界の打開を目的に自民党総裁福田康夫と民主党代表小沢一郎との間で大連立に向けて党首会談が行なわれ、国会でのオール与党実現が検討された。
2009年9月にかつての野党第一党だった民主党中心の政権が発足(政権交代)して以降、民主党が安全保障問題、社会保障問題、税制問題、国民総背番号制、機密費公開問題などでかつての与党だった自民党に近い保守寄りの政策を打ち出す姿勢を見せたことで、民主党と自民党との間に政策の明確な対立軸が少なく無くなりつつあり、オール与党体制となりつつあった。特に、野田内閣下の2012年では民主党、自民党、公明党の3党間で社会保障と税制を巡り三党合意が交わされた。
その後自民党が第一党に復帰し、自公政権に戻って以降は、再び対決路線をとるようになっている。なお、2010年代以後常に与野党双方に対して是々非々の方針を採る日本維新の会は国対政治の場から排除されないばかりかむしろ、自民党、立憲民主党、日本共産党のいずれからも懐柔の対象とみられている。
小沢は55年体制が「自民党と社会党は地下茎でつながっていて、国会が止まったりするのは芝居。すべて実質的に全会一致だった」[20] とし、保守二大政党制導入による国対政治からの脱却を主張している。
注釈
- ^ 例えば長洲に対しては、1975年の初当選時には社会党と共に「明るい革新県政をつくる会」を組織してその中核となったが、1987年の四選時と1991年の五選時には県政与党から離脱し、独自候補を擁立した。出典:「平和ですみよい神奈川民主県政をつくる会」、「会について」
- ^ 1979年・1983年の神奈川県知事選挙では長洲一二の「オール与党」体制に対し、「泡沫候補」日本労働党の山本正治が挑戦した。同党は国政にも県内の自治体にも議員を送れず、山本自身も神奈川2区(当時)で得票率1%未満の落選を繰り返していた。しかし、この知事選では1979年に19万票、1983年には36万票を獲得した。その後は共産党が長洲とその後継の岡崎洋に対立候補を擁立したが、山本は1999年まで知事選に立候補を続け、1995年には自己最多の45万票(共産党推薦候補の半分以上)の得票を記録した。
出典
- ^ 市川虎彦『保守優位県の都市政治』(晃洋書房、2011年)1 - 2ページ
- ^ 河村, pp. 47–49.
- ^ 河村, pp. 49–52.
- ^ 川口徹「1975年の非核神戸方式を巡る中央地方関係」『社学研論集』第16巻、早稲田大学大学院社会科学研究科、2010年9月、43-53頁、CRID 1050001202488996224、hdl:2065/33599、ISSN 1348-0790、2023年12月27日閲覧。
- ^ 河村, pp. 53–55, 62–63.
- ^ 河村, pp. 59–62.
- ^ 河村, pp. 61–65.
- ^ a b 河村, pp. 191–193.
- ^ 河村, pp. 193–198.
- ^ 河村, pp. 198–201.
- ^ 河村, pp. 201–202.
- ^ “〈統一地方選〉相乗り候補が多い理由は?” 2016年6月20日閲覧。
- ^ “【2015統一地方選】 強まる相乗り傾向 自・民とも候補者難” 2016年6月20日閲覧。
- ^ 都議会は自公民「オール与党」/民主党 99.3%賛成 どこからみても与党/野党ポーズでも実態は隠せない しんぶん赤旗 2009年7月8日
- ^ 河村, pp. 39–45, 61–65.
- ^ 河村, pp. 97–98.
- ^ 河村, p. 83.
- ^ 河村, p. 188.
- ^ 河村, pp. 175–180.
- ^ 自民党の一強状態は決して最良の状態ではない
- 1 オール与党とは
- 2 オール与党の概要
- 3 国会でのオール与党
- 4 脚注
- オール与党のページへのリンク