オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ 年表

オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/06 15:25 UTC 版)

年表

  • 1755年12月25日: ベルサイユの近く、ジャルジェ家に生まれる。以後、男として育てられる。
  • 1773年6月8日王太子王太子妃の初の正式なパリ訪問の際、近衛連隊長付近衛兵として警備を務める。当時大尉
  • 1774年1月30日: 夜、パリのオペラ座における仮装舞踏会で、マリー・アントワネットフェルゼンが初めて出会う。オスカルも含め、3人が初めて顔を合わせた。
  • 1774年春: アンドレが不注意で王太子妃に怪我をさせた際、フェルゼンとともにアンドレをかばう。アンドレは奇跡的に無罪となる。
  • 1774年5月: ルイ15世崩御の後、深夜、棺がサン・ドニ教会に運ばれるのを、40名の近衛兵とともに守る。
  • 1775年夏: 王妃となったマリー・アントワネットの計らいにより、大佐に昇進。近衛連隊長となる。
  • 1775年夏: ヴェルサイユ宮殿内オペラ館における晩餐会において、ド・ゲメネ公爵と口論、決闘となるところ、王妃から1箇月の謹慎を命じられる。その間、アラスにあるジャルジェ家の領地を視察する。
  • 1776年から1777年頃: オスカルの母を自分の母の仇と間違えたロザリーを引き取り、ジャルジェ家で貴婦人に育てる。
  • 1784年7月: 夜、ローアン大司教とマリー・アントワネットに扮した娼婦のオリバ嬢の密会の際、たまたま近くを通り、ローアン大司教を目撃する。
  • 1785年8月15日ヴェルサイユ宮殿・鏡の間で、ブイエ将軍の命により首飾り事件についてローアン大司教を逮捕する。また、その足で、犯人と目されるジャンヌを逮捕する。また、その後サルペトリエール牢獄より脱獄したジャンヌと事件後逃亡していた夫の近衛連隊大尉ニコラス・ド・ラ・モット伯爵を潜伏先のサベルヌにおいて取り押さえる。その功により准将に昇進。
  • 1787年春: 黒い騎士事件。黒い騎士をとり逃したということを理由に、マリー・アントワネットに自分の降等処分を願い出る。結果、近衛隊を辞め、フランス衛兵隊のベルサイユ常駐部隊長に就く。
  • 1788年: ブイエ将軍のベルサイユ訪問における閲兵式で、アランら部下が将軍を侮辱する。衛兵隊を辞めようとするが部下に止められる。
  • 1788年9月: 近衛連隊での元部下ジェローデルがジャルジェ家を訪問し、オスカルに結婚を申し込む。
  • 1788年10月: ジャルジェ家で舞踏会を開催する。オスカルへの求婚者を集めるが、オスカルが男の服を着ることで舞踏会は破綻する。
  • 1788年10月: アンドレが毒入りワインを用意し、オスカルとの無理心中を図るが、結局、飲まず。
  • 1788年11月: アンドレとともに馬車でパリに向かうが、パリで民衆に襲われる。フェルゼンに助けられる。
  • 1788年12月: 衛兵隊から2週間の休暇を取る。同じ日、王太子ルイ・ジョゼフと遠乗りする。ルイ・ジョゼフと会う最後の日となる。
  • 1788年12月: 休暇明け、隊に顔を見せない部下アランの家を訪ねる。妹ディアンヌが自殺したために狂ってしまっていたアランを見つけ、正気に戻らせる。
  • 1789年5月4日: 翌日の三部会開会に先立つサン・ルイ教会でのミサに向かう三部会議員の行列を、スイス人近衛連隊とともにフランス衛兵隊が護衛。
  • 1789年6月19日: ブイエ将軍が、三部会会議場の入り口の閉鎖を命ずる。命令を拒みきれず、議場を閉鎖。
  • 1789年6月20日: 国民議会派がジュー・ド・ポームで団結を誓った際、その前でナポレオンとすれ違う。
  • 1789年6月23日: 国王が三部会議員を再び集めるにあたり、議場の前で指揮を取っていたドルー・ブレゼ侯が平民議員のみを裏口に回らせようとしたのに腹を立てる。また、平民派が国王の命に背いて退場しないため、ブイエ将軍が衛兵隊を会議場に侵入させようとしたが、これを拒否する。同じく部下らも命令を拒否し、部下らは1班全員が投獄される。オスカルへの処分は行なわれなかったが、オスカルの行動に父ジャルジェ将軍が激昂。父がオスカルに剣を向けたところへアンドレが命がけで飛び込み、その場を収める。この後、オスカルはアンドレに初めて自分の愛を告白する。
  • 1789年6月30日: ベルナール・シャトレに協力を持ちかけ、アベイ牢獄に投獄された12名の部下を釈放することに成功する。
  • 1789年7月11日: 連隊本部よりフランス衛兵隊へ、13日にテュイルリー宮広場へ向けての出動が命じられる。
  • 1789年7月12日: 馬に乗る若き日のオスカルの肖像画が完成する。その夜、アンドレと結ばれる(アニメ版ではこの直前に「私ごとき娘を愛し、お慈しみ下さって本当に有難う御座いました」という父に宛てた今生の別れとも言うべき文をマロンに遺していた。これをマロンが読み上げ、ジャルジェ将軍は「(死ぬことは)許さん! 許さんぞ、オスカル!」と叫んでいる)。
  • 1789年7月13日: テュイルリー宮広場で発生した暴動の知らせを聞き、爵位を捨て民衆の側に立つことを決意する。部下ダグー大佐がベルサイユに帰るのは止めず、広場でドイツ人騎兵隊と戦闘し勝利するが、アンドレはオスカルをかばい、銃撃を受けて死亡する。
  • 1789年7月14日: 民衆のバスティーユ牢獄襲撃にフランス衛兵隊を率いて参加、善戦するも、ド・ローネー侯の部下の狙撃に遭う。バスティーユの上に白旗が上がるのを見た直後、落命する(33歳没)。

  1. ^ プロジェクトX〜挑戦者たち〜2005年12月6日放送「ベルサイユのばら 愛の逆転劇 ~宝塚復活~」より[信頼性要検証]
  2. ^ Oscar”. ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY. 2020年4月19日閲覧。
  3. ^ 小林明 (2019年9月13日). “池田理代子さん 「ベルばら」オスカルはなぜ女性に”. 日本経済新聞社日経BP. p. 3. 2019年9月15日閲覧。
  4. ^ 当時のフランス人としては、かなりの長身である。また、史実でのアントワネットが輿入れした時のルイ16世と同じ。
  5. ^ 『ベルばら』執筆当時の作者のスリーサイズである。
  6. ^ 書籍『永遠のベルサイユのばら』。原作者のコメントより。
  7. ^ 史実では当時の准将は1779年に創設されたBrigadier des armées du roiと呼称される旧准将であり、現准将の呼称であるGénéral de brigadeは当時の少将-Maréchal de campを1793年に改称したものでNATO創設まで少将であったため全くの別物である。また、旧准将は1788年に廃止されている。
  8. ^ 原作では影のつもりのピンクが強すぎて全体的にピンクに見えるが、実は「ウェディングドレス」のつもりなので白いドレス。原作は首元まで首飾りと布で覆われていたが、アニメは布を取り払ったが、「ベルサイユは~」では原作に近いものの胸元から背中にぐるりと横にラインがあり色はピンク。






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