アルトゥール・ニキシュ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/24 22:23 UTC 版)
生涯
幼少時代
1855年10月12日、オーストリア帝国領ハンガリー王国のレベニー・シェント・ミクローシュに生まる[6]。父はドイツ=スラヴ系で男爵家の簿記係を務めており、母ルイーゼ・フォン・ロボツはハンガリー人であった[7][8]。その後家族の移住に伴い、モラヴィア地方のブッションヴィッツで育った[8]。なお、ニキシュはハンガリー語ではなく、ドイツ語を使用して育った[7]。
5歳の頃より学校の教師からピアノと初歩の音楽理論を習い、長足の進歩をとげた[7][9]。さらに同年からヴァイオリンも演奏し始めた[10]。7歳の時には自動演奏楽器オーケストリオンに初めて接し、ロッシーニの『セビリアの理髪師』と『ウイリアム・テル』の序曲、マイアベーアの『悪魔のロベール』を耳にしたが、帰宅するやいなや、一度聴いただけの曲をピアノで完全に再現したという[6]。また、8歳の時にはピアニストとして公開演奏会を行ったが、この頃にはジギスムント・タールベルクによるオペラのピアノ編曲を演奏できるほどの腕前であった[7][6]。さらにニキシュは作曲も行うようになり、ソナタやカルテットのほか、カンタータや交響曲を作曲した[7]。
なお、息子の音楽の才能を目の当たりにした父親の判断により、ニキシュは正規の学校教育は受けず、家庭教師がつけられた[6][8]。この家庭教師のおかげでニキシュは深い教養を身につけており、数ヶ国語を操れるようになった[8]。音楽評論家のウエルナー・エールマンはニキシュの文章表現には並々ならぬ教養がうかがわれると指摘している[8]。
学生時代
11歳の時にはウィーン音楽アカデミーに入学し、作曲、ピアノ、ヴァイオリンを学んだ[6][9]。ニキシュの成績は優秀で、卒業者にのみ開かれている上級作曲クラスに、入学後すぐさま編入されるほどであった[6]。13歳の時には、作曲部門の1等賞(受賞作品は弦楽六重奏)、ヴァイオリン部門の1等賞、ピアノ部門の2等賞など、音楽院の様々な賞を受賞したほか、16歳の時には代役としてウィーン宮廷オーケストラをバックにヴァイオリン・ソロを演奏した[6]。
ニキシュは学生の頃から、様々なオーケストラのメンバーとしても活躍していた[6]。1872年には師ヨーゼフ・ヘルメスベルガーの推薦により、リヒャルト・ワーグナーが指揮するオーケストラの一員としてベートーヴェンの『交響曲第3番』を演奏したほか、その1週間後にはバイロイト祝祭劇場の基礎工事の着工式で同じくベートーヴェンの『交響曲第9番』を演奏した[6][11]。ニキシュはこの経験から大きな影響を受けており「ワーグナーがウィーンで指揮した『エロイカ(交響曲第3番)』やバイロイトでの『第九』は、私のベートーヴェンのイメージに、ひいては私のオーケストラの解釈に、決定的影響を与えました。ワーグナーは決して「熟練した指揮者」ではありませんでしたが、彼の「動き」そのものがもう音楽と言えます」と語っている[12][13]。また、1873年にはウィーン宮廷オーケストラに第2ヴァイオリン奏者として参加し、作曲家自身の指揮のもとブルックナーの『交響曲第2番』を演奏した[14]。ニキシュはのちにこの経験を振り返って「私はこの交響曲を弾きながら、たちどころに感動した。そして46年が経った今でも、私はこの曲にたいしても、また他の交響曲にたいしても、同じ感動を覚えている」と述べている[14][15]。
18歳の時には、音楽院の卒業演奏会で初めてオーケストラの前に立ち、自作の『交響曲第1番』を指揮した[16][10]。なお、ニキシュは作曲家としても認められていたが、後年「屋上屋を架すことはない」と言って作曲をやめた[16]。
ヴァイオリニスト時代
1874年1月1日には、ウィーン宮廷歌劇場の第1ヴァイオリン奏者となった[16]。フランツ・リストやヨハネス・ブラームス、ジュゼッペ・ヴェルディ、アントン・ルビンシテインなどの指揮で演奏をしたが、ニキシュにとってオーケストラ生活は退屈であり、1875年から1876年にかけては8回の無断欠席をした[16][17]。特にイタリアのベルカント・オペラが演奏される際には頻繁にさぼり、ポケットマネーで代役を雇うほどであった[16]。そのため、たびたび生活に窮する有様であった[16]。
音楽院時代のニキシュの作曲の師であり、宮廷楽長でもあったフェリックス・オットー・デッソフは、そんなニキシュの様子を気にしており、ライプツィヒ・オペラの監督であるアンゲロ・ノイマンから「ライプツィヒ市立劇場が合唱指揮者を募集している」という情報を得ると、ニキシュに声をかけた[16][注 1]。これによりニキシュは、ウィーンを離れて指揮者として活動していく決意をした[16]。
ライプツィヒ市立劇場時代
1878年にはライプツィヒ市立劇場の合唱指揮者に就任したが、4週間後にはもう楽長(カペルマイスター)の地位についていた[19][11]。デビューは1878年2月11日に行われ、ニキシュはポール・ラコンブのオペレッタを暗譜で指揮した[19]。結果は大成功で「オーケストラと舞台は魔法にかかったようになった」と評された[19]。
デビューの1年後には24歳の若さでオーケストラの首席指揮者となったが、首席指揮者として初めてのリハーサルの際にはオーケストラ団員たちから「若すぎる」と反感を買い、『タンホイザー』の演奏を拒否された[19]。ザルツブルクでこの反乱を知ったノイマンは「ニキシュのリハーサルが気に入らない場合、序曲を演奏したのちに解散してよい」と電報を打ち、なんとかリハーサルは続行された[19]。その結果、団員たちはニキシュの指揮に感動し、『タンホイザー』全曲を演奏したという[19]。
着任してから10年間、ニキシュはライプツィヒ市立劇場のために尽力し、古い作品を新たな演出で上演する一方で、ワーグナーの『ニーベルングの指環』『トリスタンとイゾルデ』といった新しい作品を上演した[19][20][17]。また、ニキシュ時代のライプツィヒ市立劇場には、イグナーツ・ブリュルやアウグスト・ブンゲルトといった作曲家が指揮者として登場しており、特に自作の『シェッキンゲンのトランペット吹き』を指揮したヴィクトル・ネスラーは好評を博した[21]。ニキシュのもとでライプツィヒ市立劇場は、ドイツのオペラ劇場のトップの地位に躍り出たと言われている[19][20]。
ニキシュによるレベルアップの結果、ほかの優秀な指揮者たちもライプツィヒ市立劇場に登場するようになり、1886年から1887年にかけてはアレクサンダー・フォン・フィーリッツがオペラ指揮者として登場したほか、同じく1886年からグスタフ・マーラーが副楽長の地位についた[22][20]。なお、ニキシュとマーラーは大いに聴衆の心を掴み、本人たちも互いに尊敬の念を抱いていたが、個人的に打ち解けることはなかった[20]。2年後にマーラーがライプツィヒを去ると、ニキシュもライプツィヒを狭いと感じるようになった[23]。
また、ニキシュはライプツィヒ市立劇場のオーケストラであるライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の演奏会に登場することもあり、1880年にはシューマンの『交響曲第4番』を指揮して未亡人のクララ・シューマンに激賞されたほか[9]、1884年には同オーケストラでアントン・ブルックナーの『交響曲第7番』の世界初演を行った[24][11]。
ボストン交響楽団時代
1889年、ニキシュは創業者のヘンリー・リー・ヒギンソンに請われてボストン交響楽団の指揮者に就任し、ライプツィヒを去った[23][25][26]。ボストン交響楽団は裕福なパトロンに支えられた優秀なオーケストラであり、ニキシュに1万ドルの年俸(王侯級の金額であったと言われている)を支給したほか、演奏旅行の際も贅沢なサロン風車両を割り当てたが、合計30万キロメートル近くアメリカ国内を旅する中でニキシュはストレスが溜まってしまい、4年ほどで辞任した[23]。なお、辞任に際してはいくつかの都市でお別れ演奏会が開かれた[23]。上地隆裕は「楽団の創設初期、ニキシュが在任した、というだけで、ボストン交響楽団史には一層重みが加わるのである」と評している[26]。なお、ボストン交響楽団団員としてニキシュのもとで演奏した音楽家にオトカル・ノヴァーチェクがいる[27]。
ブダペスト王立歌劇場時代
1893年にはヨーロッパに戻り、ブダペスト王立歌劇場で首席楽長に就任したが、権謀術数に嫌気がさして任期途中で辞任した[23][24]。この頃についてニキシュは、「自分をハンガリー人だと思うのが嫌になった」とすら述べている[23][24]。一方で、ハープ奏者を務めていたアルフレート・ケスナーのために国立ロイヤルアカデミーのポストを紹介したりもした[28]。
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団
35年間音楽監督を務めていたカール・ライネッケが退任したのち、1895年にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団はその後継者としてニキシュを選出した[24][9]。ニキシュはライプツィヒの聴衆たちから熱狂的に受け入れられ、以後四半世紀にわたって「ライプツィヒで最も人気の人物」であったとされる[24]。ライプツィヒの契約は後述のベルリン同様、ニキシュが死去するまで続いた[11]。
ニキシュはライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団のレパートリーを拡大した[24]。ライネッケ時代のレパートリーは、古典的な作品とシューマンの作品が中心であり、同時代の音楽はほとんど演奏されていなかったが、ニキシュはフランツ・リスト、アントン・ブルックナー、ヨハネス・ブラームス、ピョートル・チャイコフスキー、リヒャルト・ワーグナー、リヒャルト・シュトラウスなどの同時代の作曲家たちの作品をライプツィヒに紹介した[24]。1896年には自身が指揮する『交響曲第4番』の演奏会に作曲家のブラームスを招いたほか[29][30]、1919年から1920年にかけてのシーズンには、ブルックナーの交響曲の連続演奏会を行っている[31]。
また、ニキシュはノーギャラで「労働者演奏会」を開催することもあり[24]、第一次世界大戦終結を祝した「1918年大晦日の自由と平和の祭」に集まったライプツィヒの労働者のためにベートーヴェンの『交響曲第9番』を演奏した[32][31]。
ニキシュはライプツィヒの人々から愛されていた[24]。ライプツィヒの電気労働組合がストを行なっていた時「ニキシュが心臓発作に見舞われ、救命装置が停電のため作動しない」という噂が流れると、すぐにストが中止されるほどであった[24]。
ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
初代首席指揮者のハンス・フォン・ビューローが引退したのち、しばらくはハンス・リヒターやフェリックス・モットル、リヒャルト・シュトラウスといった客演指揮者たちを招いていたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は、1895年になると首席指揮者としてニキシュを選出した[11][33]。同じ1895年に結ばれたライプツィヒとベルリンのダブル契約は、1922年にニキシュが死去するまで続いた[11]。
ニキシュ時代のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団は「第2の全盛時代」を迎えたと評されている[34][35]。ただし着任当初はベルリンでの知名度が低かったこともあって苦戦を強いられており、1895年10月14日に行われたベルリンでのデビュー・コンサートは、その4日前にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団で行われたデビュー・コンサートほどの成功は得られず、無料切符を配布したにもかかわらず会場が半分しか埋まらないほどであった[34][1]。また、『ドン・ファン』『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』『英雄の生涯』『アルプス交響曲』といったリヒャルト・シュトラウスの主要な管弦楽作品を全て演奏した1897年のコンサートでも、ホールはほぼ空っぽであった[36][37]。批評家たちもニキシュについて「気取り屋」「派手好き」と評したほか、ベートーヴェンの解釈については水準以下であると判断した[38]。
ただしニキシュは少しずつ評判を勝ち取ってゆき、1897年にはドイツ、スイス、フランスへの演奏旅行がニキシュ1人に任せられることになった[37]。この演奏旅行は成功を収め、特にパリでは数千人が押し寄せるほどの大成功であった[39]。なお、パリの演奏会では、数日前に発生した火災の死者たちのために曲目をベートーヴェンの『交響曲第3番』に変更しており、第2楽章の葬送行進曲では楽団員たちを起立させて演奏させた[39]。
外国での成功を受けて、ベルリンの人々もニキシュとベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に興味を示し始め、立見席が完売するようになった[40]。これにより1898年には「ガラス屋根のホール」が建設されたほか、翌年には1036の座席を持つ「ベートーヴェンザール」の建設用地が確保された[40]。また、ベルンブルガー通りの古い建物がいくつか取り壊されると、シュテルン音楽院まで収容可能な広大な敷地を有するようになった[40]。その後、1899年、1901年、1904年に再び大規模な演奏旅行を行った[40][41]。
その後も演奏旅行は行われたが、1914年に第一次世界大戦が始まると外国への演奏旅行は不可能となった[42][43]。スカンディナビアの中立国は門戸を開いていたが、1917年に予定されていたオスロでの演奏会は、ドイツへの反対運動により頓挫した[43]。ニキシュ自身は長らく世界市民的な考えを抱いていたため、大戦中も「国際主義的な芸術家」を自認し、「芸術を通じて人々の間に相互理解と友好の架け橋を築く」ことを自身の使命と考えていたという[43]。
ニキシュ時代のベルリン・フィルハーモニー管弦楽団には、マッティア・バッティスティーニ、テレサ・カレーニョ、フリッツ・クライスラー、エレナ・ゲルハルト、パブロ・カザルス、ハインリヒ・シュルスヌス、ヤッシャ・ハイフェッツといったソリストが登場した[44]。また、団員としてコンサートマスターのヴァーツラフ・ターリヒ[45]、ルイス・パーシンガー[46]、チェリストのジョゼフ・マルキン[47]らがニキシュのもとで演奏した。なお、ニキシュ在任中の1903年12月7日には、楽団員がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団有限会社を設立している[48]。
その他の活動
ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団とベルリン・フィルハーモニー管弦楽団というドイツトップクラスのオーケストラ2つを指揮しつつも、ニキシュはさらに活躍の場を広げた[49]。1897年にはハンブルク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者に就任し、死去するまで務めた[49]。また、1905年からロンドン交響楽団を指揮するようにもなり、1912年から1914年にかけては同団の首席指揮者を務めた[50][49]。ニキシュはロンドン交響楽団の首席ホルン奏者アドルフ・ボルスドルフを高く評価しており、リハーサルではその演奏のあまりの美しさに指揮棒を落とすことすらあった[51]。さらにニキシュは1905年から1906年にかけて、ライプツィヒ市立劇場の監督とライプツィヒ音楽院院長を務めた[49]。この他にも、ニキシュは各地で客演活動を行った[49]。例えばプファールによるニキシュの評伝には、1903年春のスケジュールが以下のように記載されている[49]。
一方、バイロイト祝祭劇場では一度も指揮をしなかったが、これは当時の「国際的な経歴を持った指揮者はバイロイトにはふさわしくない」と考えられていたからだと言われている[52]。なお、指揮以外にもニキシュはピアニストとして歌手の伴奏をすることもあった[44]。
死
1922年初頭には、ベルリンでの指揮者生活25周年を祝った[53]。しかしその数日後の1922年1月23日、ニキシュは心臓発作に襲われて死去した[53]。葬儀では故人の意向により、ユリウス・クレンゲルの『12のチェロのための賛歌』がベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の団員たちによって演奏されたほか、ワーグナーの『パルジファル』前奏曲のパイプオルガン編曲版が演奏された[54][55]
多くの人がニキシュの死を悼んだ[56]。当時ギムナジウムの学生であったヴォルフガング・シュトレーゼマンは「誰もがニキシュの死によってぽっかり埋めようのない空白ができてしまい、これは帝都ベルリンの音楽生活にとって取り返しのつかない損失だと感じていた」と回想している[56]。新聞各紙もニキシュの死を悼み、『ベルリン日刊新聞』は「この損失は取り返しのつかないものである......。われわれはまだ彼を必要としていたのに......」と記したほか、『ドイツ一般新聞』は「われわれの指揮者たちをひとわたり見渡しても、あれほど国際的な権威と普遍性を持ち合わせた人など、じつのところ1人もいない......」と報じた[54]。他にも『フォス新聞』は「われわれはいったい誰をもってしてこの巨匠の代役とすればよいのか、見当もつかない」と記し、ゲルハルト・ハウプトマンはニキシュを「楽壇に出現した奇蹟の人」とたたえた[56][54]。ニキシュが客演した全ての大きなホールの入り口には、半旗が掲げられた[53]。
なお、死を悼む記事と同時に後任者を予想する記事も執筆されており、リヒャルト・シュトラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、フェリックス・ワインガルトナー、ジークムント・フォン・ハウゼッガーらの名前があげられたが[55][57]、結局はフルトヴェングラーがベルリン、ライプツィヒにおける後継者となった[58]。
注釈
- ^ ライプツィヒ市立劇場でニキシュを雇い、後年プラハの劇場の監督となったアンゲロ・ノイマンは、グスタフ・マーラーの推薦状を手にしたオットー・クレンペラーを合唱指揮者・楽長として雇う際「あなたには、20年前アルトゥール・ニキシュに与えた職を差し上げましょう」と述べている[18]。
- ^ ニキシュは同時代の作品が演奏されるコンサートにも足を運んでおり、1912年にはバレエ・リュスによるイーゴリ・ストラヴィンスキーの『火の鳥』公演を鑑賞している[94]。
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