オーケストラの改革者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/12 03:24 UTC 版)
「ヘンリー・ウッド」の記事における「オーケストラの改革者」の解説
ウッドは指揮技法の上では、ドイツで主に活躍した19世紀末-20世紀初頭の大指揮者アルトゥール・ニキシュを大いに模範としていたらしい(ウッドの蓄えていた見事な髭までもがニキシュのそれの模倣であるとの説すらある)。 そして彼は英国のオーケストラに多くの改革をもたらした。彼は伝統的にヨーロッパ大陸より半音近く高かった標準ピッチを大陸基準のA=435Hzに調整することを主張している。 日曜日を除く毎日、週6日公演を行うというプロムスでは週3日しかリハーサル時間が組めず、これは多くの新曲を紹介したいというウッドにとっては困難な状況であったが、彼は事前にパートごとに譜面の詳細な研究を行い、さらに楽団員にリハーサル開始・終了時刻を厳守させることでこの局面を切り抜けている。 1904年には「リハーサルやコンサートの日に、より実入りの多い仕事が入ってきた場合、楽団員はオーケストラに代役演奏者を送ることができる」という、それまで英国のオーケストラで横行していた悪しき慣習を撤廃し、彼のタクトのもとオーケストラの演奏水準は次第に向上していった。 なお1913年にはウッドは英国のオーケストラに初めて女性を正規の楽団員として迎え入れるのにも寄与している。 ウッドの尽力は英国国内ばかりでなく、他国にも認められる存在であった。1902年のベルリン、「アルゲマイネ・ミュージック・ツァイトゥンク」紙はエルガーとウッドの2人を特に「英国音楽界における革新者」として紹介しているし、1904年に彼がニューヨーク・フィルに客演した際は現地紙でその「雄渾、鋭利かつ活発」なタクトさばきが絶賛されている。彼はまた1911年にはニューヨーク・フィルの、そして1917年にはボストン交響楽団の常任指揮者に就任を要請されている(いずれの機会もウッドは断っている)。
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