アルトゥール・ナポレアン・ドス・サントスとは? わかりやすく解説

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アルトゥール・ナポレアン・ドス・サントス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/28 05:05 UTC 版)

この名前は、ポルトガル語圏の人名慣習に従っています。第一姓(母方の姓)はナポレアン、第二姓(父方の姓)はドス・サントスです。
アルトゥール・ナポレアン・ドス・サントス
Arthur Napoleão dos Santos
ワルシャワにて 1860年頃
基本情報
生誕 1843年3月6日
ポルトガル王国 ポルト
死没 (1925-03-12) 1925年3月12日(82歳没)
ブラジル リオデジャネイロ
ジャンル クラシック
職業 作曲家ピアニスト

アルトゥール・ナポレアン・ドス・サントスArthur Napoleão dos Santos 1843年3月6日 - 1925年3月12日)は、ポルトガル作曲家ピアニスト、楽器商、音楽出版者。

生涯

ポルトガルポルトに生まれた。7歳で最初のピアノ演奏会を開いた彼は、8歳になるとポルトガル国王フェルナンド2世の後ろ盾を得て、初の国外演奏旅行でロンドン(ポルトガル大使館で演奏)とパリなどの都市を訪れた。これ以降、彼はヨーロッパ全土とアメリカを巡り、時にはアンリ・ヴュータンヘンリク・ヴィエニャフスキとも共演した。15歳でニューヨーク公演を行った際には、批評家のリチャード・ストーズ・ウィリスが「ヨーロッパを虜にした子どもが、どんなものか見てみたいという興味に駆られて」訪れている。感銘を受けたウィリスは彼に付いて次のように記した。「桁外れの演奏家である(中略)タッチは優しさに満ちて優雅、ほとんどミスがなく正確、力強さは立派というに余りあるもので、音楽観のまとめ方は全くもって愉快であった[1]。」

1866年ブラジルへと移り、リオデジャネイロに居を構えた。彼はここで楽器の販売店と楽譜販売業を立ち上げている。また、ピアノの指導を行ってシキーニャ・ゴンザーガらを育てた他、ほぼピアノ曲だけに絞って作曲も行った。彼は82歳でリオデジャネイロに没した。

主要作品

管弦楽曲

  • 管弦楽とバンドのための『Camões
  • ピアノと管弦楽のための『L’Africaine
  • Acre state anthem
  • エスピリトサント州の州歌

ピアノ曲

  • A Brasileira
  • A Caprichosa
  • Elvira
  • A Fluminense
  • Uma primeira impressão do Brasil
  • Soirée de Rio
  • Soirées intimes
  • Teus olhos

脚注

  1. ^ Lawrence, Vera Brodsky. Strong on Music: The New York Music Scene in the Days of George Templeton Strong. The University of Chicago Press, 1999. vol. III, p. 214. ISBN 0-226-47015-6

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