MotoGPクラス時代
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「加藤大治郎」の記事における「MotoGPクラス時代」の解説
2002年、最高峰クラスにステップアップ。最高峰クラスはこの年から「MotoGPクラス」と名称が変わり、それまでの2st500ccマシンに加え、4st990ccマシンが参戦できるようになった。チャンピオン、バレンティーノ・ロッシの乗るホンダ・RC211Vなど、4stマシンの多くは大治郎の乗るホンダ・NSR500をはじめとする2stマシンの能力を大きく上回り、ほとんどのレースにおいて2st勢は優勝争いに加わることは無かった。スペインGPでは2st勢としてのシーズン最上位タイとなる2位を獲得するなど活躍。第10戦チェコGPからRC211Vを供給されるに至る。チェコGPでいきなり2位に入り、パシフィックGPではポールポジションを獲得。MotoGPクラス初優勝が期待されたがリタイア、それ以降も優勝できないままシーズンを終えた。 前年、体の小さい大治郎は大きくパワーのあるMotoGPマシンを扱いきれなかったことから、2003年初優勝を遂げるべく、オフシーズンに肉体改造に取り組んだ。ウィンターテストにも熱心に取り組み、王者ロッシから最大のライバルとして名前をあげられた。また、ホンダからもその期待の表れとしてワークスのレプソル・ホンダ以外のチームでは唯一ファクトリースペックのRC211Vを供給されている。 確たる自信をつかめないままスタートしたシーズン開幕戦、日本GP(鈴鹿)、予選は好調といえない状態で11位。決勝ではまずまずのスタートをきり、4位争い集団につけた。3周目、130Rの立ち上がりでマシンが左右に激しく揺さぶられ、コントロールを失い、立て直そうと試みたもののその先のシケインのスポンジバリアに激突した。発生から激突までわずか2秒ほどであった。ヘリコプターで病院に搬送され意識不明の状態が2週間ほど続いたが、4月20日未明、脳幹梗塞のため夭折する。26歳。 2004年5月8日、イタリア・ミサノ市で、ミサノ・サーキットのメインゲートに通じる新しい道路が完成し、加藤大治郎を称えて「viale daijiro kato」(加藤大治郎通り)と命名された。
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