C-47による曳航・滑空試験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/10 17:02 UTC 版)
「M2-F1」の記事における「C-47による曳航・滑空試験」の解説
高空からの滑空試験に先立って、M2-F1は射出座席と機体尾部に小型ロケットを装備した。この小型ロケットは開発チームから「インスタントL/D」と呼ばれ、必要があれば5秒までの噴射が可能になっていた(L/Dは揚力と抗力の比、すなわち揚抗比を高めるためにロケットを用いた)。トンプソンはその後しばらくポンティアックの牽引での練習を続け、C-47による飛行試験に備えた。 初回飛行は1963年8月16日に行われ、パイロットはトンプソンが務めた。曳航時のM2-F1の前方視界は機首が上を向くせいで非常に悪かったため、母機であるC-47より6mほど高い位置を飛ぶことで機首下部に設けられた窓から母機を確認できるようにする必要があった。C-47は牽引速度およそ160km/hで高度3660mまで上昇し、そこでM2-F1が解放されてエドワーズ空軍基地に向けて滑空飛行を行った。通常の飛行試験では滑空速度が180km/h程度になり、分速1100mで降下した。降下中に高度300mになったら機首下げを行って(ただし全体的な姿勢は機首を上げたまま)速度を240km/hまで増加させ、降下角度20度で高度60m付近に達したらロケットに点火した。この方法によって着陸をスムーズに行うことができ、リフティングボディの実用性が示唆された。 M2-F1は1966年8月16日まで飛行試験に供され、リフティングボディの概念を最初に実証して全金属製の後継機への布石となった。地上牽引は400回、航空機に引かれての実験飛行は77回に上った。M2-F1の試験にはチャック・イェーガー、ブルース・ピーターソン(en:Bruce Peterson)、ドン・マリック(Don Mallick)といったパイロットも参加している。
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