4代隨竹庵として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/28 15:25 UTC 版)
隨竹庵を継承した節庵は、門下に野村徳七・村山龍平らをはじめとする当時の有力な財界人を抱え、流派を問わず財閥・実業家と広く交流し、大阪を拠点に「篠園会」「十八会」等を組織・主宰した。これらの会では毎月会員内で亭主を順番に担当し、各々の自慢のコレクションを取り合わせた、名物・名品揃いの月釜を開催していた。当時のコレクションの多くは、野村美術館・香雪美術館・三井記念美術館等、国内各地の財閥系美術館に所蔵されている。 また、節庵は茶室建築・築庭にも精通し、三井高棟に招かれて本邸や箱根別邸の茶室・日本庭園を設計し、国宝「如庵」を大磯に移築した。ジョサイア・コンドル設計「綱町三井倶楽部」に付属する19,800m2(約6,000坪)の日本庭園も、節庵の設計である。その他、大徳寺塔頭真珠庵「庭玉軒」、水無瀬神宮「灯心席」等の修復、篠園会会員の協力を得て大阪天満宮・天野山金剛寺に茶室・庭園を寄贈した。 当時の大阪にあった節庵の邸宅は、三井高棟別邸を移築した正八角形の母屋を持つ洋館であったが、第二次世界大戦時に同邸宅は取り壊され、現存していない。その離れの書庫があった場所には現在、吹田市役所がある。
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