20代の作品
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/01/20 06:52 UTC 版)
現在知られている小川清助最初の作品は、下田市相玉、相玉庚申堂の背後に迫る藤原山の山頂に立つ石塔である。この石塔は宝篋印塔の形をしているが、塔身正面に「天上 降臨 青面金剛明王塔」と刻まれているため、庚申塔であることが確認でき、小川清助の名はこの塔の台座背面に刻まれた6人の石工の筆頭として刻まれている。ところでこの塔の塔身左面には造塔の由来を記した長文の刻銘があるが、その後半に年銘があり、嘉永5年(1852年)の作であることがわかる。嘉永5年当時小川清助は弱冠20歳の若者であり、そのような彼が石工たちの筆頭として銘文に名が見られる点は不自然とも考えられ、あるいは先代の作ではないかとも思われる。しかし後年、小川清助が制作で悩んだ際に相玉の庚申堂に篭っていたという伝承があり、彼と庚申堂の深い関係を思わせる点、小川姓を作品に刻するのが彼に始まったと思われる点などから、現時点ではこの塔の作者を小川清助とするのが穏当と考えられる。 その後の小川清助は、21歳のときに下田市河内・重願寺の六地蔵を、28歳のときに下田八幡神社の石灯籠を制作している。下田八幡神社は下田町の鎮守として下田町民の信仰を集めていた神社であり、この神社に彼の作品がのこることは、20代後半の小川清助が、すでに下田町内で一定の評価を受けていたことを示している。なお、下田八幡神社には拝殿前にもう一対、小川清助作の石灯籠があったというが、近年の拝殿火災の際に失われたという。また、小川清助は、下田市白浜の白浜神社の拝殿再建にも参加、白浜神社玉垣とそれに付属する小さな一対の狛犬に「下田石工 小川清助」の名を刻んでいる。この狛犬と玉垣にはそれぞれ、万延元年(1860年)、文久元年(1861年)の銘があり、小川清助28歳、29歳の作である。
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