1953年ストライキ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 22:30 UTC 版)
「三井三池争議」の記事における「1953年ストライキ」の解説
1953年(昭和28年)、行過ぎた労働争議拡大に危機感を抱き、逆に締め付けを図っていたGHQによる占領も終結していたが、次第にエネルギー源は石炭から石油へと変化し、石炭需要が落ち込みを見せ始めていたことから、三井鉱山は経営合理化のために希望退職を募った。しかし、希望退職者が会社があらかじめ系列の鉱山に割り当てた数に達しなかったため、3464人に退職を勧告し、それに従わない2700人を指名解雇した。このような会社の措置に炭鉱労働者と事務職員がともに反発し共闘。指名解雇に反対し、ストライキに突入した。ストライキは113日間に及び、ついに会社側は指名解雇を撤回、労働者側は勝利を宣言した。この闘いは当時、「英雄なき113日間の闘い」ともてはやされ、三池労組は一躍その名を高めた。 しかし、実際にはストライキ中の貧窮に耐えかね、約6割の被通告者がスト中からスト後にかけて退職していた。また、一部事業所や不採算坑道の休廃止なども概ね三井鉱山側の意図通りに実施された。全国三井炭鉱労働組合連合会(三鉱連)は『三鉱連企闘白書――英雄なき百十三日の闘い(全国三井炭鉱労働組合編)』にて、このことを指摘しているが、勝利に酔った三池労組はこの総括として組織力と統制の強化で対処することとしつつも、これは却って柔軟な対応力を失なわせていくことになった。
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