1953年の騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 18:36 UTC 版)
1953年の凱旋門賞は国際大レースに相応しいメンバーが揃った。イギリスからはセントレジャーの優勝馬プリモニション(Premonition)がやってきた。コロネーションカップで前年のワシントンDCインターナショナルの勝馬を破ったズクロもやってきた。敗戦国西ドイツからは20年ぶりにドイツダービー馬のニーデルレンダー(Niederländer)が挑戦してきたし、アガ・カーン3世は前年の優勝馬ヌッチョ(Nuccio)を送り込んできた。地元のフランス勢ではパリ大賞の優勝馬ノーザンライト(Northern Light)が出走した。 競馬場には10万人の大観衆が集まり、戦後の初代大統領のオリオール大統領やドイツの鉄鋼王ハインリッヒ・フォン・ティッセン男爵も観戦にやってきた。このレースは最終コーナーのあたりで起きたアクシデントで大荒れとなった。坂下でブサックのジャニター(Janitor)とニーデルレンダーが激しく衝突し、右膝の後ろを大きく切ってしまった。イギリスのプリモニションは勝負どころで右後肢を蹴られて腱まで達する深い傷を負った。これらのトラブルを尻目に早めに抜けだしたフランス牝馬のラソレリーナ(La Sorellina)が逃げ切り、その半兄のシルネ(Silnet)が2着に入った。妹兄での1・2着は凱旋門史上初めての珍事だった。道中のラフプレーに何人もの騎手が異議を唱え、イギリスのマスコミは主催者を批難したが、主催者は審議の結果、特定の馬に非を認めるのは不可能だと結論づけた。これがきっかけとなって、フランスではパトロールフィルムが導入されることになった。パトロールフィルムは6年後の凱旋門賞で、ゴールしたときは同着と判定されたセントクレスピンとミッドナイトサンに決着をつけるのに役だった。 主催者にとって良いニュースは、この凱旋門賞で3着に入ったヴォルデン(Worden)が、その秋にイタリアに転戦してローマ賞を勝ち、さらにアメリカへ遠征してワシントンDCインターナショナルを圧勝したことだった。この2つの勝利は凱旋門賞の価値を高めることになった。
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