1922年、マデイラ島にて「皇位継承」
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 04:25 UTC 版)
「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事における「1922年、マデイラ島にて「皇位継承」」の解説
父カール1世は、国事不関与の宣言こそすれ、退位の宣言などしたつもりはなかった。カール1世は二度にわたって復権するための行動を起こしたが、しかしカール1世の復帰運動はいずれも失敗に終わり、1921年11月19日にカール1世とツィタはポルトガル領マデイラ島に流された。 両親がマデイラ島への船路にある中、オットーたちはスイスになお留まっており、カール1世の義理の祖母マリア・テレサ大公妃の庇護のもとにあった。10月27日の時点ではマリーア・アントーニア・デル・ポルトガッロのもとに移ったようである。 1922年1月、母ツィタは次男ローベルトの虫垂炎の手術が間近に迫っていたことから、期限付きでスイスに入国した。この際にツィタはオットーたちをマデイラ島へ呼び寄せる決心を固めた。1月21日にスイスを発ったツィタの後を追い、1月25日にオットーは安静にせねばならないローベルトを除く弟妹たちと一緒にスイスを離れた。オットーたちはポルトガルでツィタと合流し、2月2日にマデイラ島に到着した。マデイラ島での一家の暮らしは、バターも買えないほど困窮したものであった。 オットーがマデイラ島に到着してからわずか2か月後の1922年4月1日、カール1世は肺炎によって死の床についたが、その際、母ツィタは9歳のオットーにこう言った。 お父様は今、永遠の眠りに就かれました。あなたは今、皇帝にして国王(Kaiser und Könige)となったのです。 父の重篤な病のことを知っていたのはきょうだいのなかでオットーだけであり、唯一カール1世の死去に立ち会った。この日の午後からオットーは「陛下」と呼ばれるようになったが、オットーは大声で泣きながら「パパの遺体が運ばれてから、そう呼んでよ!」と周囲の者に言ったという。
※この「1922年、マデイラ島にて「皇位継承」」の解説は、「オットー・フォン・ハプスブルク」の解説の一部です。
「1922年、マデイラ島にて「皇位継承」」を含む「オットー・フォン・ハプスブルク」の記事については、「オットー・フォン・ハプスブルク」の概要を参照ください。
- 1922年、マデイラ島にて「皇位継承」のページへのリンク