1151年 - 1154年
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「ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」の記事における「1151年 - 1154年」の解説
1150年、イジャスラフはオルィシャニツァの戦い(ru)でガーリチ公ウラジーミルに破れ、ヴォルィーニへと一時撤退した。しかし1151年冬、ハンガリー王ゲーザ2世からの援軍と共に、イジャスラフは再びキエフを目指した。ガーリチ公ウラジーミルがこれを阻止しようと軍を動かすが、イジャスラフはこれを振り切り、再度キエフに入り、ヴャチェスラフとの共同統治を再開した。この共同統治(実質的にはイジャスラフが主権を握る)は1154年まで続いた。この間、ユーリーはキエフを奪取する南征を画策するが、1151年春にルート川の戦い(ru)で敗北する。一方、イジャスラフは息子ムスチスラフにハンガリー兵を預け、ユーリーの同盟者ガーリチ公ウラジーミルのガーリチ公国を攻撃させたが、サポゴフ(ru)の戦いで敗北した。なお、この年には、イジャスラフの娘婿であるログヴォロド(ドルツク公家)が、ユーリー派のロスチスラフ(ミンスク公家)にポロツク公位を奪われている。イジャスラフ・ユーリー両者は膠着状態となり、クルスクを押さえるユーリーに対し、イジャスラフはペレヤスラヴリにムスチスラフを置いてこれに備えた。 1152年、イジャスラフ・ハンガリー同盟軍はサン川の戦い(ru)でガーリチ公国軍を破り、ガーリチ公ウラジーミルに停戦協定を結ばせた。一方、ダヴィド家は再度イジャスラフ側についたため、同年ユーリーは、親イジャスラフ派に抑えられたチェルニゴフを囲む(ru)が、これを陥とすことはできなかった。逆に、親ユーリー派のノヴゴロド・セヴェルスキーはイジャスラフ・ハンガリー同盟軍に囲まれ降伏(ru)、オレグ家のノヴゴロド・セヴェルスキー公スヴャトスラフは講和を結んで公位を保持した。 1153年、ガーリチ公ウラジーミルが死亡すると、イジャスラフはガーリチを攻撃、後を継いだウラジーミルの子ヤロスラフ(ユーリーの娘婿)をテレボヴリの戦い(ru)で破った。同年、ユーリーは再度南征を行い、ユーリーの子アンドレイ(ru)が一時リャザンを占拠するが、スモレンスク公ロスチスラフによって奪い返された。
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