1151年 - 1154年とは? わかりやすく解説

1151年 - 1154年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/02 05:50 UTC 版)

ルーシ内戦 (1146年 - 1154年)」の記事における「1151年 - 1154年」の解説

1150年、イジャスラフはオルィシャニツァの戦い(ru)でガーリチ公ウラジーミル破れヴォルィーニへと一時撤退した。しかし1151年冬、ハンガリー王ゲーザ2世からの援軍と共に、イジャスラフは再びキエフ目指した。ガーリチ公ウラジーミルがこれを阻止しようと軍を動かすが、イジャスラフはこれを振り切り、再度キエフ入りヴャチェスラフとの共同統治再開した。この共同統治実質的にはイジャスラフが主権を握る)は1154年まで続いたこの間ユーリーキエフ奪取する南征画策するが、1151年春にルート川の戦い(ru)で敗北する一方、イジャスラフは息子ムスチスラフハンガリー兵を預けユーリー同盟者ガーリチ公ウラジーミルガーリチ公国攻撃させたが、サポゴフ(ru)の戦いで敗北した。なお、この年には、イジャスラフの娘婿であるログヴォロド(ドルツク公家)が、ユーリー派のロスチスラフミンスク公家)にポロツク公位を奪われている。イジャスラフ・ユーリー両者膠着状態となり、クルスク押さえユーリー対し、イジャスラフはペレヤスラヴリムスチスラフ置いてこれに備えた1152年、イジャスラフ・ハンガリー同盟軍サン川戦い(ru)でガーリチ公国軍を破りガーリチ公ウラジーミル停戦協定を結ばせた。一方ダヴィド家は再度イジャスラフ側についたため、同年ユーリーは、親イジャスラフ派に抑えられチェルニゴフを囲む(ru)が、これを陥とすことはできなかった。逆に、親ユーリー派のノヴゴロド・セヴェルスキーはイジャスラフ・ハンガリー同盟軍囲まれ降伏(ru)、オレグ家のノヴゴロド・セヴェルスキー公スヴャトスラフ講和結んで公位を保持した1153年ガーリチ公ウラジーミル死亡すると、イジャスラフはガーリチ攻撃、後を継いだウラジーミルの子ヤロスラフユーリー娘婿)をテレボヴリの戦い(ru)で破った同年ユーリー再度南征行いユーリーの子アンドレイ(ru)が一時リャザン占拠するが、スモレンスク公ロスチスラフによって奪い返された。

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