1152年のアイルランド教会再編
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「ダブリン大主教」の記事における「1152年のアイルランド教会再編」の解説
1151年、教皇エウゲニウス3世はパパロニ枢機卿(英語版)に対し、アイルランドに赴き4つの大教区を設立する許可を出した。そして1152年のケルズにおける総会においてアーマー、ダブリン、キャセル、そしてツアムという4つの大司教管区が作られた。 1214年にツアム大司教(英語版)によって作られた文書によれば枢機卿はダブリン(これは当時、市壁の中だけを監督していた)を基礎とするものとグレンダーロッホ、双方の司教を見出したときの動向として「彼は同じ司教区で、もうひとつの山の上にある教会を見つけた。それはさらにグレンダーロッホという都市の名前を持ち、そして独自の司教区(chorepiscopus)を持っていた。しかし、彼はパリウム(大司教用の肩衣)を最も良い都市であり、かつ司教区(グレンダーロッホ)と双方の都市は分けられているべきであると認められていたダブリンに届けた。そしてそのためにダブリンは大教区にならなければならない。」とある。ダブリン北郡(North County Dublin)の一部、フィンガルとして知られる地域はグレンダーロッホ司教区からダブリン市に移管された。新たな大司教区は40の、古い修道院に基づく管区になっている小教区を抱えていた。また、カンタベリーを筆頭とするイングランド教会にすべてを依存していた状態も、終わりを告げた。
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