1月蜂起と虐殺(1919年1月)
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「ローザ・ルクセンブルク」の記事における「1月蜂起と虐殺(1919年1月)」の解説
この1月、ドイツ革命は新たな局面を迎える。1月4日にベルリンの警察長官エミール・アイヒホルン(英語版)が解任されたことをきっかけに、翌5日には大規模なデモが発生し、ベルリン各地の主要施設が武装した労働者をはじめとする革命軍によって占拠された。この動きをリープクネヒトや独立社会民主党のゲオルク・レーデブール(英語版)らが支持したため、この蜂起は「スパルタクス団蜂起」と一般に呼ばれるようになる。ただしこの蜂起は共産党(スパルタクス団)が計画したものではまったくなく、ルクセンブルクをはじめ他の共産党幹部はこの起こった蜂起に当初激しく反対したとされる。ただし、蜂起に加担することが決定された後は革命の完遂を呼びかけるようになった。翌6日にはゼネストが始まったものの、蜂起側がそれ以上の行動に移ることはなく、その間に体勢を立て直したエーベルトのSPD政府はフライコールを出動させて革命軍への弾圧を本格化した。1月9日から15日にかけての激しい戦闘でスパルタクス団ほかの革命軍は壊滅、レーテも解体されてゆく。 ローザとリープクネヒトは1月15日にベルリンでフライコールに逮捕され、数百人の同志と同様に2人とも殺害された。リープクネヒトは後頭部を撃たれて身元不明の死体置き場へ運ばれ、ローザは銃床で殴り殺されて近くの川に投げ捨てられた。ローザの死体は6ヶ月ものあいだ放置され、拾い上げられたときには識別困難であったという。その後、遺体は国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)政権により所在不明となってしまった。2009年5月、ベルリンのシャリテ病院で身体的特徴がローザのものと一致する首の無い遺体が発見され、現在調査中だと報じられた(ナチスによる墓荒らしもこの時に判明した)。
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