黎朝に仕官
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1483年に宜陽(現在のハイフォン市キエントゥイ県)で生まれたと伝わる。陳朝の状元合格者であった莫挺之の七世孫に当たる。幼少期は家庭が貧しく、生活のため父と共に漁業に従事して生計を立てていた。やがて成長すると朝廷に仕え、前黎朝の皇帝である威穆帝の身辺警護を命じられた。 威穆帝が暴政の末反乱の中で没し、代わって従兄弟の襄翼帝(中国語版)が即位すると、莫登庸は武川伯に封じられた。その襄翼帝も暴政により重臣の鄭惟㦃(中国語版)の反乱によって殺害されると、鄭惟㦃は襄翼帝の甥(弟の子)の黎光治(中国語版)を擁立しようとした。しかし鄭惟㦃は皇帝弑逆の罪を問われて武佐侯馮邁・鄭惟㦃の兄の鄭惟岱(中国語版)らによって黎光治ともども殺害され、新たな皇帝には襄翼帝の別の甥(兄の子)の黎椅(昭宗)が即位した。この混乱に際して陳朝の太宗陳煚の玄孫を称した陳暠が反乱を起こし、この反乱を平定した陳真(中国語版)が権力を掌握した。また同じく陳暠の反乱鎮圧に功のあった鄭綏(中国語版)(黎朝開国の功臣鄭克復の末裔)と阮弘裕(中国語版)(丁朝の宰相阮匐(中国語版)・黎朝開国の功臣阮廌らの末裔、阮朝の祖先阮淦の再従兄弟あるいは父)が対立し軍事衝突に発展すると、陳真は鄭綏を支援して阮弘裕を敗走させた。この時山南を守っていた莫登庸は、陳真から阮弘裕の殺害を提案されたが、莫登庸はこれを却下した。 陳真が朝廷を掌握すると、莫登庸は長男の莫登瀛を陳真の娘と結婚させて姻戚関係を結んだ。しかし陳真は専横を嫌った昭宗に暗殺されるも、その朋党の阮敬・阮盎による反乱により昭宗は首都昇龍を追われ、阮弘裕の下へと逃亡した。ここで莫登庸は昭宗を宝州に迎え入れてその身柄を保護し、以降も阮敬・阮盎の反乱軍の鎮圧で功を上げた事で、阮弘裕に代わって昭宗の信頼を得た。これに対し鄭綏らは対立皇帝として最初に黎榜(中国語版)、次いで黎槱(中国語版)を擁立し莫登庸に対抗したが、莫登庸は鄭綏の軍を大破して黎槱を殺害し、阮敬・阮盎らの率いる反乱軍も降伏させるなど、その勢力を徐々に拡大していった。こうして1521年、仁国公に封じられた莫登庸は軍権を掌握し、同年には陳暠の子の陳㫒率いる反乱軍の残党を一掃、翌年には黎克綱・黎伯孝の反乱を鎮圧した。
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