黎朝に仕官とは? わかりやすく解説

黎朝に仕官

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/12 00:12 UTC 版)

莫登庸」の記事における「黎朝に仕官」の解説

1483年宜陽現在のハイフォン市キエントゥイ県)で生まれたと伝わる。陳朝状元合格者であった挺之の七世孫に当たる。幼少期家庭貧しく、生活のため父と共に漁業従事して生計立てていた。やがて成長する朝廷仕え前黎朝皇帝である威穆帝身辺警護命じられた。 威穆帝暴政の末反乱の中で没し、代わって従兄弟の襄翼帝中国語版)が即位すると、莫登庸武川伯に封じられた。その襄翼帝暴政により重臣の鄭惟㦃(中国語版)の反乱によって殺害されると、鄭惟㦃は襄翼帝の甥(弟の子)の黎光治中国語版)を擁立しようとした。しかし鄭惟㦃は皇帝弑逆の罪を問われ武佐侯馮邁・鄭惟㦃の兄の鄭惟岱(中国語版)らによって黎光治ともども殺害され新たな皇帝には襄翼帝別の甥(兄の子)の黎昭宗)が即位した。この混乱に際して陳朝太宗陳煚の玄孫称した陳暠反乱起こし、この反乱平定し陳真中国語版)が権力を掌握した。また同じく陳暠反乱鎮圧に功のあった鄭綏(中国語版)(黎朝開国功臣克復末裔)と阮弘裕(中国語版)(丁朝宰相阮匐(中国語版)・黎朝開国功臣阮廌らの末裔阮朝祖先阮淦再従兄弟あるいは父)が対立し軍事衝突発展すると、陳真は鄭綏を支援して阮弘裕を敗走させた。この時山南守っていた莫登庸は、陳真から阮弘裕の殺害提案されたが、莫登庸はこれを却下した陳真朝廷掌握すると、莫登庸長男登瀛を陳真の娘と結婚させて姻戚関係結んだ。しかし陳真専横嫌った昭宗暗殺されるも、その朋党の阮敬・阮盎による反乱により昭宗首都昇龍追われ、阮弘裕の下へと逃亡した。ここで莫登庸昭宗を宝州に迎え入れてその身柄保護し以降も阮敬・阮盎の反乱軍鎮圧で功を上げた事で、阮弘裕に代わって昭宗信頼得た。これに対し鄭綏らは対立皇帝として最初に黎榜(中国語版)、次いで黎槱(中国語版)を擁立し莫登庸対抗したが、莫登庸は鄭綏の軍を大破して黎槱を殺害し、阮敬・阮盎らの率い反乱軍降伏させるなど、その勢力徐々に拡大していった。こうして1521年、仁国公に封じられ莫登庸は軍掌握し同年には陳暠の子の陳㫒率い反乱軍残党一掃翌年には黎克綱・黎伯孝の反乱鎮圧した

※この「黎朝に仕官」の解説は、「莫登庸」の解説の一部です。
「黎朝に仕官」を含む「莫登庸」の記事については、「莫登庸」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「黎朝に仕官」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「黎朝に仕官」の関連用語

1
6% |||||

黎朝に仕官のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



黎朝に仕官のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの莫登庸 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS