黎陽・壷関へ進出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 09:48 UTC 版)
遡って309年3月、西晋の左積弩将軍朱誕が漢へ亡命してきた。彼は劉淵へ向け、西晋の都である洛陽がいかに脆弱であるかを語り、これを攻め取るよう勧めた。そこで劉淵は洛陽に狙いを定めると、朱誕を前鋒都督に、滅晋将軍劉景を大都督に任じ、彼らをまず黎陽へ侵攻させた。劉景らは黎陽へ侵攻するとこれを陥落させ、さらに延津へ進撃して王堪を撃ち破った。 さらに劉淵は王弥を侍中・都督青徐兗豫荊揚六州諸軍事・征東大將軍・青州牧に任じ、楚王劉聡・前鋒都督石勒と共に壷関へ侵攻させた。西晋の并州刺史劉琨は護軍黄粛・韓述を救援の為に派遣したが、劉聡は西澗において韓述を破り、石勒は封田において黄粛を破り、いずれもその首級を挙げた。太傅司馬越は淮南内史王曠・将軍施融・曹超を派遣して劉聡軍を防がせた。王曠は太行を越えた所で漢軍と遭遇し、両軍は長平において交戦した。劉聡・王弥らはこれを破って王曠を撃退し、施融・曹超を戦死させた。
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